ゲノム医療GenomicMedicine虎島泰洋*はじめに近年の科学技術の発展のなかでも,ゲノム科学はとりわけ著しく進展し,その成果を医療に実装しようとする動きは世界,そして日本でも急速に進みつつある.ゲノム科学においては,遺伝情報の総体であるゲノムだけでなく,細胞中に存在するすべてのRNA情報であるトランスクリプトーム,生体内に存在するタンパク質の総体であるプロテオーム,代謝物質であるメタボローム,そしてまたメチル化・アセチル化といったゲノムに修飾される情報であるエピゲノム変化といったオミクス全体を扱うようになってきている(図1).本稿では,個人のゲノム情報などをもとにして,その個人の体質や病状に適した医療を行う「ゲノム医療」について,それにかかわる環境や制度を解説する.なお,患者の細胞に遺伝子を導入するなどで病気を治療する遺伝子治療や,標的遺伝子を直接改変するゲノム編集についてはここでは触れない.Iゲノム医療の歴史ヒトゲノムの全塩基配列30億塩基対を解析すべく1990年に国際的なプロジェクトとして開始されたヒトゲノム計画は,1953年にジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見して50年となる2003年に完成版が公開された.そして2000年半ばに登場した次世代シークエンサー(nextgenerationsequencer:NGS)によってこの分野は一段と加速することとなった.従来のシークエンサーはサンガー法を用い一つ一つDNA配列を読み取るものであったが,NGSは多数のDNA配列を同時に解析することで時間とコストを飛躍的に改善させた.その後も技術革新は続き,毎年2倍以上というムーアの法則を超えるスピードでNGSデータ出力量が増加し,併せてコストも低下している(図2).ヒトゲノム計画では全塩基配列解読に13年という期間と30億USドルもの費用がかかったが,現在では,高い信頼性を保ちながらも数日内に1,000USドルで解読できるまでになった.2015年に当時米国大統領であったバラク・オバマ氏が「PrecisionMedicineInitiative」を発表した.平均的な患者のためにデザインされた従来型医療から脱却し,遺伝子,環境,ライフスタイルに関する個人ごとの違いを考慮した予防や治療法を確立するため,100万人以上の全米研究コホートを創設し,2億USドル以上の予算をかけ新しい癌の治療法開発などを推進するというものであり,これによって世界がゲノム医療実用化へ大きく舵を切ることとなった.また,2013年に米国の女優,アンジェリーナ・ジョリーが遺伝性乳癌・卵巣癌症候群の関連遺伝子,BRCA1/2遺伝子変異に基づき,予防的な乳房切除を行ったことが話題となり,ゲノム医療そして遺伝子検査が一般的にも認知されることとなった.*YasuhiroTorashima:長崎大学大学院移植・消化器外科〔別刷請求先〕虎島泰洋:〒852-8501長崎市坂本1-7-1長崎大学大学院移植・消化器外科0910-1810/17/\100/頁/JCOPY(53)1537メチル化アセチル化フェノタイプDNARNAProteinMetabolites図1オミクスゲノムと遺伝子について研究するゲノミクスを始め,転写物-ランスクリプトミクス,タンパク質-プロテオミクス,代謝物-メタボロミクスなどの生体内に存在する分子全体を網羅的に研究するオミクスが進展している.$100M$10M$1M$100K$10K200120022003200420052006200720082009201020112012201320142015図2ヒトゲノム解析コストの推移ヒトサイズのゲノムを解析するコストは2007年を境に急激に低下し,ついに1,000ドル時代を迎えている.(NHGRIGenomeSequencingProgram資料より抜粋)ジストロフィンDNAMLPAや網膜芽細胞腫のRB1遺伝子など,単一遺伝子などの異常が原因となる疾患に関する遺伝学的検査がある.欧米における遺伝学的検査は4,600項目以上にのぼるのに対し,日本では144項目(保険収載は36疾患)にとどまっていたことで対応の遅れを指摘されてきたが,2016年度の診療報酬改定において遺伝学的検査が診断に必須とされる指定難病が追加された.しかし,いまだその多くの疾患が検査項目や検査方法が明確化されていないものも多く,また疾患が希少であるため衛生検査所で実施していない項目も多い(表1).遺伝子関連検査を行う場合,医療機関自らが保険適用されていない試薬を用いて行う自家調整検査法(labora-torydevelopedtest:LDT)や,医療機関内でブランチラボに業務委託される検体検査,衛生検査所に業務委託するものが行われているが,オミクス検査や遺伝子関連検査に特化した基準がないままに広く流通してきたことを踏まえ,2017年には医療法が改正され,LDTの品質・精度管理にかかる基準を定める根拠規定が新設された.今後具体的な基準などが定められる省令などを注意深く確認する必要がある.また近年,日本でも消費書直販型(direct-to-consum-er:DTC)遺伝子検査という医療機関を介さない検査サービスに大手IT事業者が参入し話題をよんでいる.インターネットで申し込み,送られてきた検査キットで唾液などの検体を採取して送り返すと,体質や疾患リスクを多項目にわたり分析した結果が直接返される.医行為ではないため診断は行えないが,環境要因が疾患の発症にかかわる多因子疾患を対象としており,利用者に気づきを与え,自らの行動変容を促すサービスとされている.しかし,十分な内容説明を提供されずに検査を受けること,検査の品質が担保されていないこと,科学的な根拠が乏しい場合があることなどの問題が指摘され,さらに個人情報保護の規定を加えた経済産業省のガイドラインが発出されたことを受け,業界団体(NPO法人個人遺伝情報取扱協議会)の自主基準が策定された.また,羊水ではなく,母体血を用いて胎児の染色体数的異常が判定できるとして,無侵襲的出生前遺伝学的検査(non-invasiveprenatalgenetictest:NIPT)も話題となり,2013年に日本産婦人科学会により指針が策定された.現在,限定した施設,限定した条件下に臨床研究として行われている.いずれの遺伝子関連検査においても,留意すべき重要なものの一つに遺伝カウンセリングがある.遺伝学的検査では診断が生涯変化せず,血縁者にも影響を与えうる遺伝情報を扱うこととなる.検査結果が示す意味を正確に理解することが困難であったり,疾病の将来予測性に対してどのように対処すればよいか本人や家族が不安をもったり,ということが考えられる.2011年に日本医学会により策定された「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン」においては,各診療科の医師自身が遺伝に関する十分な理解と知識および経験をもつことが重要であること,検査の意義や目的の説明とともに,結果が得られた後の状況や検査結果が血縁者に影響を与える可能性があることなどについて十分に説明し,患者・被験者の自律的選択が可能となるような心理的社会的支援ができるように,習熟した者が協力し,チーム医療としてカウンセリングを実施する体制を整えることとしている.III日本におけるゲノム研究の推進2014年の健康・医療戦略において,「環境や遺伝的背景といったエビデンスに基づく医療を実現するため,その基盤整備や情報技術の発展に向けた検討を進める」「ゲノム医療の実現に向けた取組を推進する」とし,2016年に閣議決定された「日本再興戦略」では,ゲノム解析などの技術革新を最大限に活用し,医療・介護の質や生産性の向上,国民の生活の質の向上,革新的な医薬品・医療機器などの開発・事業化につなげ,世界最先端の健康立国の実現をめざすとともに,グローバル市場の獲得をめざすことが掲げられた.2015年には健康医療戦略推進会議の下に「ゲノム医療実現推進協議会」が設置され,ゲノム医療の実現に向けオールジャパン体制での強化を図るとし,中間とりまとめが発表された.同年には,厚生労働省事務局による「ゲノム情報を用いた医療等の実用化推進タスクフォース」が設置され,改正個人情報保護法,医療制度における課題,社会環境整備について意見がとりまとめられて(55)あたらしい眼科Vol.34,No.11,20171539D006-4遺伝学的検査3,880点表1D006.4遺伝学的検査検査検査項目検査方法アデュシェンヌ型筋ジストロフィジストロフィンDNAMLPAMLPAベッカー型筋ジストロフィジストロフィンDNAMLPAMLPA福山型先天性筋ジストロフィ福山型筋ジストロフィDNA挿入PCR栄養障害型表皮水疱症──家族性アミロイドーシスTTR遺伝子変異解析(トランスサイレチン遺伝子変異解析)ダイレクトシークエンス法先天性QT延長症候群──脊髄性筋萎縮症──イハンチントン病HTT遺伝子CAG反復配列解析PCR球脊髄性筋萎縮症AR遺伝子CAG反復配列解析PCR法網膜芽細胞腫──甲状腺髄様癌RET遺伝子検査多発性内分泌腫瘍症2型(MEN2)遺伝子診断ダイレクトシークエンス法ウフェニルケトン尿症──メープルシロップ尿症──ホモシスチン尿症──シトルリン血症(1型)──アルギノコハク酸血症──メチルマロン酸血症──プロピオン酸血症──イソ吉草酸血症──メチルクロトニルグリシン尿症──HMG血症──複合カルボキシラーゼ欠損症──グルタル酸血症1型──MCAD欠損症──VLCAD欠損症──MTP(LCHAD)欠損症──CPT1欠損症──筋強直性ジストロフィDMキナーゼDNACTG反復配列解析サザンハイブリダイゼーション法隆起性皮膚線維肉腫──先天性銅代謝異常症──色素性乾皮症──先天性難聴先天性難聴の遺伝子解析NSG法+Invader法ロイスディーツ症候群──家族性大動脈瘤・解離──検査検査項目検査方法エ神経有棘赤血球症──先天性筋無力症候群──ライソゾーム病──プリオン病──原発性免疫不全症候群──クリオピリン関連周期熱症候群──神経フェリチン症──ペリー症候群──先天性大脳白質形成不全症──環状20番染色体症候群──PCDH19関連症候群──低ホスファターゼ症──ウィリアムズ症候群ウィリアムズ症候群(7番染色体)FISH法クルーゾン症候群──アペール症候群──ファイファー症候群──アントレー・ビクスラー症候群──ロスムンド・トムソン症候群──プラダー・ウィリ症候群プラダー・ウィリ症候群(15番染色体)FISH法Prader-willi/Angelman症候群遺伝子解析メチレーションPCR1p36欠失症候群特定染色体サブテロメア領域解析FISH法4p欠失症候群4染色体Wolf-Hirschhorn症候群FISH法5p欠失症候群特定染色体サブテロメア領域解析FISH法第14番染色体父親性ダイソミー症候群──第14番染色体父親性ダイソミー症候群──アンジェルマン症候群アンジェルマン症候群(15番染色体)FISH法Prader-willi/Angelman症候群遺伝子解析メチレーションPCRスミス・マギニス症候群──22q11.2欠失症候群22番染色体22q11.2欠失解析FISH法エマヌエル症候群──脆弱X症候群関連疾患脆弱X症候群脆弱X症候群脆弱X症候群の遺伝子解析サザンハイブリダイゼーション法ウォルフラム症候群──タンジール病──高IgD症候群──化膿性無菌性関節炎・壊疽性膿皮症・アクネ症候群──先天性赤血球形成異常性貧血──若年発症型両側性感音難聴先天性難聴の遺伝子解析(対象遺伝子:TMPRSS3,KCNQ4,WFS1,TECTA,COCH,CDH23,ACTG1)NSG法+Invader法尿素サイクル異常症OTC遺伝子塩基配列決定全翻訳領域PCR-RFLP法ダイレクトシークエンス法Nested-PCR法マルファン症候群──エーラスダンロス症候群(血管型)──2016年度の診療報酬改定にてエの項目が追加された.しかし,検査項目や検査方法が明確化されていないものも多く,また疾患が希少であるため衛生検査所で実施していない項目も多い.(厚生科学審議会疾病対策部会第46回難病対策委員会資料より抜粋改変)図3ゲノム医療実現への出口を見据えた研究開発フェーズ医療への実利用が近い単一遺伝子疾患などの第1グループ,多くの国民が罹患する一般的な疾患である第2グループをさらにStageごとに分類し,進捗管理が行われる.(ゲノム医療実現推進協議会,平成28年度報告より抜粋)図4疾病克服に向けた医療実現プロジェクト省庁連携プロジェクトとして,多くの事業が研究基盤の整備や試行的・実証的な研究を一体的に推進するとして176億円の予算が要求されている.(平成30年度医療分野の研究開発関連予算の概算要求のポイントより抜粋)図5臨床ゲノム情報統合データベース事業がん,希少疾患・難病,感染症,認知症,その他の個々の症例から得られた臨床情報とゲノム情報を集積・統合する臨床ゲノム情報統合データベースを構築している.図6未診断疾患イニシアチブ(IRUD)診断体制希少・未診断疾患患者をIRUD拠点病院において体系的に診断し,患者情報を収集蓄積,開示するシステムを構築している.(「未診断疾患イニシアチブのご案内」改訂第2版より抜粋)図7がんゲノム医療推進コンソーシアム懇談会報告書の概要がんゲノム医療実現のための新たな体制として,がんゲノム中核拠点病院やがんゲノム情報管理センター,がんゲノム医療推進コンソーシアムの設立が示された.(がんゲノム医療推進コンソーシアム懇談会資料より抜粋)て行い,そこで明らかとなった新しい変異を組み込むことで遺伝子パネル検査の充実をめざす,とした.そのため,ゲノム医療を受けた患者のゲノム情報と,治療後の転帰情報を含めたリッチな臨床情報を併せて集約し,研究での利活用をうながす仕組みを提案している.質の高いがんゲノム医療を提供するため,がんゲノム医療中核拠点病院に限定した医療提供が適切であるとし,そこから産出されるデータは,がんゲノム情報レポジトリーと人工知能を利用した知識データベースを備えた情報管理センターに集約される(図7).これらを受け,がん診療体制のあり方検討会において,がんゲノム中核病院の指定要件が議論された.施設・体制,人員,実績,診療連携・人材育成の観点で要件が示され,全国に10程度の施設が指名される見込といわれている.がん遺伝子パネルが保険収載されるまでは,パネルを用いた医療を先進医療として行うことが決定している.がんゲノム情報管理センターが稼働するまでは,AMED研究である臨床ゲノム情報統合データベース事業のなかでシステムを整備し,プロトタイプとして運用していくこととなった.さらに,がん患者のゲノム解析の結果,未承認・適応外薬が治療の選択肢となった場合に備え,治験・臨床試験の情報を一元管理したうえで必要な医師主導治験を促すような適切な治療薬の選択肢をタイムリーに提供できる体制の整備も併せて行うこととなっている.VI国際的な動向前述のPrecisionMedicineInitiativeの下,アメリカ国立衛生研究所(NationalHumanGenomicResearchInstitute:NIH)は,一般的な疾患から希少疾患までゲノム医療を多角的に推進し,世界をリードしている.全米に存在する既存のゲノムコホートを有機的に連携し,100万人以上の研究コホートを構築することによって,健康に影響を与える遺伝要因と環境要因の関係性を明らかにすることを目標としている.遺伝子変異・多型にかかる知識・データを集約・整理し,共有するための公的な基盤として,「ClinVar」が運用されており,すでに全世界で単一遺伝病の検査に欠かせないものとなっている.英国では,GenomicsEnglandを英国保健省が10万人のゲノムプロジェクトのために設立し,NGSの世界トップ企業であるイルミナ社と共同でシーケンス解析を実施している.さらに英国は欧州最大規模のUKBio-bankを有し,2006.2010年の5年間で全国から健常人50万人の血液,尿,唾液などの生体試料と病歴などの情報を収集保存し,多くの研究に利用され世界のバイオバンクのモデルとなっている.アジアにおいても,中国ではChinaKadoorieBio-bankが2008年に50万人の試料収集を達成し,台湾ではTaiwanBiobankに20万人,韓国ではKoreaBio-bankNetworkが健常人30万人,患者20万人の収集をめざしており,世界中で競い合うようにコホート研究が進んでいる.多因子疾患の解明のためには,より大規模なコホートが必要とされており,人種間などの差異を考慮しつつ,国際連携を進めることも重要であろう.また2017年,米食品医薬品局(FoodandDrugAdministration:FDA)は抗PD-1抗体ペムブロリズマブ(キイトルーダR)について,マイクロサテライト不安定性が高い(MSI-H),またはミスマッチ修復機構の欠損(dMMR)の固形癌を対象に迅速承認を行った.これは細胞内のDNA修復系が不十分となるため遺伝子変異数が多くなるものであるが,腫瘍の原発部位によらずバイオマーカーで薬剤を承認した初めての事例であり,今後の薬剤開発の方向性として大きな一歩となると思われる.さらにFDAは,DTCのサービス最大手である23andMe社に対し,2013年には検査サービスの停止命令を出していたが,2017年になって10の疾患や症状を対象に発症するリスクが高いかどうかを提示することを許可した.がんゲノムにおいては,300以上のがん関連遺伝子を一度に診断できる遺伝子パネルFoundation-OneRがFDAにより迅速審査プログラムに指定されたが,すでにそれをカバーする民間健康保険も販売されており,ゲノム医療の普及が本格化している.おわりにゲノム医療は,今回触れなかったゲノム情報を利用した創薬研究であるファーマコゲノミクスも含め,世界中で激しい競争が繰り広げられている.研究のための研究1546あたらしい眼科Vol.34,No.11,2017(62)