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Horner 症候群による片側性の眼瞼下垂を発症し 肺癌縦隔転移の診断に至った症例

2022年5月31日 火曜日

《原著》あたらしい眼科39(5):682.684,2022cHorner症候群による片側性の眼瞼下垂を発症し肺癌縦隔転移の診断に至った症例米田亜規子*1上田幸典*2外園千恵*1*1京都府立医科大学大学院医学研究科視覚機能再生外科学*2聖隷浜松病院眼形成眼窩外科CACaseofUnilateralPtosisCausedbyHornerSyndromethatOccurredDuetoLungCancerMetastasisAkikoYoneda1),KosukeUeda2)andChieSotozono1)1)DepartmentCofOphthalmologyandVisualSciences,KyotoPrefecturalUniversityGraduateSchoolofMedicine,2)SeireihamamatsuGeneralHospitalOphthalmicPlasticandReconstructiveSurgeryC目的:Horner症候群は片側性の眼瞼下垂,縮瞳,無汗症を主症状とする疾患で,脳幹梗塞や肺尖部・縦隔腫瘍など致命的な疾患を含むさまざまな原因に随伴して発症する.今回,肺癌治療後の患者において片側性の眼瞼下垂を認め,Horner症候群と診断し全身検索を行ったところ縦隔転移の診断に至った症例を経験したので報告する.症例:62歳,男性.肺腺癌の化学放射線療法後に寛解を得て呼吸器内科に定期通院中,片側性の眼瞼下垂を発症し紹介受診.同側の縮瞳も認め,1%アプラクロニジン点眼試験では眼瞼下垂の改善と同側の明所での散瞳を認めCHorner症候群と診断した.後日呼吸器内科で行った全身検索により肺腺癌の縦隔転移の診断に至った.右眼瞼下垂に対しては右眼瞼挙筋短縮術を施行し,眼瞼下垂の改善を得た.結論:片側性の眼瞼下垂をみた際にはCHorner症候群を念頭におき瞳孔所見や瞼裂にも注意し,Horner症候群と診断した場合には眼瞼下垂の治療のみならず原因疾患の検索も行うことが重要である.CPurpose:TopresentacaseofHornersyndromethatconsistedofunilateralptosis,miosis,andipsilateralfacialanhidrosis,CallCresultingCfromCdysfunctionCofCcervicalCsympatheticCoutput,Ci.e.,CbrainstemCinfarctionCandCaCtumorCofCtheClungCapexCorCmediastinum.CCaseReport:AC62-year-oldCmaleCwithCpulmonaryCadenocarcinomaCinCpartialCremissionCpresentedCwithCunilateralCptosis.CUponCexamination,CipsilateralCmiosisCwasCalsoCobserved,CandCpharmaco-logicCtestingCwith1%CapraclonidineCresultedCinCtheCdiagnosisCofCHornerCsyndrome.CFurtherCclinicalCexaminationCrevealedmediastinalmetastasisofthelungcancer.Conclusion:ThediagnosisofHornersyndromeshouldbecon-sideredCinCanyCpatientCwithCanisocoriaCandCunilateralCptosis,CandCwhenCHornerCsyndromeCisCdiagnosed,CtheCpatientCshouldundergofurtherclinicalexaminationtoidentifytheprimarydisease.〔AtarashiiGanka(JournaloftheEye)39(5):682.684,C2022〕Keywords:Horner症候群,眼瞼下垂,縮瞳,肺癌,縦隔腫瘍.Hornersyndrome,ptosis,miosis,lungcancer,mediastinaltumor.CはじめにHorner症候群は,眼や顔面への交感神経遠心路が障害されることで縮瞳,眼瞼下垂,眼瞼裂狭小,無汗症などの臨床所見を呈する症候群である1.3).さまざまな原因により発症するが,延髄外側症候群(Wallenberg症候群)などの脳幹部の血管障害,内頸動脈解離,肺尖部腫瘍(pancoast腫瘍)や甲状腺癌,縦隔腫瘍といった致命的な疾患に随伴して発症していることも少なくないため,早期における原因疾患の診断が重要となる2,3).今回,肺腺癌治療後の患者において片側性の眼瞼下垂を発症し,外眼部所見では眼瞼下垂に加えて同〔別刷請求先〕米田亜規子:〒602-0841京都市上京区河原町通広小路上ル梶井町C465京都府立医科大学大学院医学研究科視覚機能再生外科学Reprintrequests:AkikoYoneda,M.D.,DepartmentCofOphthalmologyandVisualSciences,KyotoPrefecturalUniversityGraduateSchoolofMedicine,465Kajii-choKamigyo-kuKyoto602-0841,JAPANC682(132)0910-1810/22/\100/頁/JCOPY(132)C6820910-1810/22/\100/頁/JCOPY側の縮瞳と瞼裂狭小も認め,1%アプラクロニジン塩酸塩(アイオピジン,日本アルコン)による点眼負荷試験を行いHorner症候群と診断し,全身検索により肺腺癌の縦隔転移の診断に至った症例を経験したので報告する.CI症例患者:62歳,男性.主訴:右眼瞼下垂.既往歴:肺腺癌(2019年C1月診断,化学放射線療法により寛解後).家族歴:特記すべき事項なし.現病歴:2020年C5月頃からの右眼瞼下垂を自覚し,同年6月に呼吸器内科から聖隷浜松病院眼形成眼窩外科へ紹介受診となった.初診時所見:視力は右眼C0.3(1.2C×sph.1.50D),左眼C0.3(1.2C×sph.0.75D(cyl.1.25DAx15°),眼圧は右眼15mmHg,左眼C16CmmHgであった.外眼部所見では右眼瞼下垂を認め,瞼縁角膜反射距離(marginCre.exCdistance1:MRD1)は右眼0mm/左眼3mmであった.また,右瞼裂狭小(下眼瞼縁の上昇),瞳孔径にも軽度の左右差(右眼C2Cmm/左眼C2.5Cmm)を認め,眼球運動は正常であった.挙筋機能(右眼C11mm/左眼C11図1a初診時の点眼試験前右眼瞼下垂および右下眼瞼縁の上昇による眼瞼裂狭小,右縮瞳を認める.右眼瞼下垂の影響で右眉毛挙上(眉毛代償)を認める.mm)には左右差を認めなかった.前眼部所見では両眼に軽度の白内障を認めたが,中間透光体や眼底には特記すべき所見は認めなかった.経過:初診時所見および肺腺癌の既往からCHorner症候群を疑い詳細な問診を行ったところ,右顔面の無汗症も認めた.1%アプラクロニジン塩酸塩点眼による両眼への薬剤点眼試験を施行したところ,点眼C30分後には右眼瞼下垂・眼瞼裂狭小の改善,および明所において右眼瞳孔の散大(瞳孔径:右眼C3.5Cmm/左眼C2.5Cmm)を認めたため,Horner症候群と診断した(図1,写真掲載に対する同意取得ずみ).その後,呼吸器内科での全身検索においてCPET-CTで肺腺癌の縦隔および骨への転移を認め,縦隔転移がCHorner症候群の原因と考えられた.縦隔転移および骨転移に対しては同科で化学療法が再開された.右眼瞼下垂については,化学療法再開からC1カ月後に眼瞼挙筋腱膜とCMuller筋をともに短縮する眼瞼挙筋短縮術を施行することで眼瞼下垂の改善を得た.右下眼瞼縁の上昇や縮瞳は眼瞼下垂術後も術前と同様に認め,肺腺癌の転移に対する化学療法再開後もこれらの症状に変化は認められなかった(図2).化学療法再開からC4カ月後に全身状態の悪化により緩和治療へ移行したが,右眼瞼下垂術からC6カ月後の診察においても右眼瞼下垂の再発は認めなかった.CII考按Horner症候群は眼や顔面への交感神経遠心路のどこが障害されても発症するが,本症例では肺癌の縦隔転移により脊髄から出て星状神経節を通過し上頸部交感神経節に終わる節前線維が障害されて発症したと考えられる2).Horner症候群による眼瞼下垂といわゆる退行性の眼瞼下垂との鑑別には,眼瞼下垂のみならず同側の縮瞳や眼瞼裂狭小4)といった眼所見を見逃さないことが重要である.その他の臨床所見として患側の虹彩異色症5),結膜充血,無汗症などを認める場合もある.また,本症例のように片側性で発症時期が比較的明確であることや,肺癌など全身疾患の既往を認める場合に図1b初診時の点眼試験後(点眼30分後)左眼と比較し右瞳孔の散大(瞳孔不同の逆転)に加えて,右眼瞼下垂と瞼裂狭小の改善を認める.右眉毛代償も改善している.図2眼瞼下垂術後2カ月右眼瞼下垂は改善している.Horner症候群自体が改善したわけではないため,右下眼瞼縁の上昇や右眼の縮瞳は術後も認めている.(133)あたらしい眼科Vol.39,No.5,2022C683もCHorner症候群の可能性を念頭において診察を進めるべきである.本症例では初診時に外眼部所見および肺癌の既往からHorner症候群を疑い,1%アプラクロニジン塩酸塩点眼による薬剤点眼試験を施行し診断に至った.5%コカインやC5%チラミンによる薬剤点眼試験もあるが,近年では簡便な方法としてC1%アプラクロニジン塩酸塩点眼による評価が行われる6,7).一般にC1%アプラクロニジン塩酸塩点眼はレーザー虹彩切除術や後発白内障後.切開術後の眼圧上昇防止に使用されるCa2adrenergicCagonistである8)が,Horner症候群の場合は,瞳孔散大筋がCa1受容体の脱神経過敏性を獲得していることから同点眼の弱い刺激作用によっても散瞳し,一方,正常眼は点眼に反応しないことから瞳孔径の逆転が起こる9).また,患側の眼瞼下垂および眼瞼裂狭小においても点眼後に改善が確認される.点眼試験ではC1%アプラクロニジン塩酸塩をC5分間隔を空けてC2回両眼に点眼し,1回目の点眼からC30分後に瞳孔径の評価を行い,瞳孔径の逆転が起きた場合に陽性と評価する10).ただし乳幼児に対してはアプラクロニジン塩酸塩点眼後に傾眠傾向や反応低下などを生じたという報告があり11),小児や乳幼児に対してはコカインによる点眼試験がより望ましいとされている3).Horner症候群による眼瞼下垂は,原因疾患に対する早期の治療が奏効した場合には症状が減弱することもあるが,消失しない場合は交感神経作動薬の開大作用を治療に用いたり12),外科的治療を行ったりする.本症例では患者本人が肺癌の縦隔転移を認める状況を鑑みて,化学療法による眼瞼下垂の改善を待たずに手術による可及的早期の眼症状改善を希望したため眼瞼下垂症手術(眼瞼挙筋短縮術)を施行した.眼瞼下垂症手術の術式には眼瞼挙筋腱膜のみを短縮する方法やCMuller筋のみを短縮する方法などがあるが,本症例では眼瞼挙筋腱膜とCMuller筋をともに短縮する術式を選択した.Horner症候群の眼瞼下垂は交感神経の障害により生じるため交感神経支配であるCMuller筋が弛緩しており13,14),これを短縮する必要があると考えられる.また,眼瞼を挙上させる際は,十分に作動しないCMuller筋を眼瞼挙筋で代償する必要があるため,眼瞼挙筋腱膜の短縮も必要と考える.本症例の術中所見では,通常,眼瞼挙筋腱膜の瞼板付着部にみられる眼窩隔膜と眼瞼挙筋腱膜の移行部(ホワイトライン)が頭側へ後退していたことから挙筋腱膜の退行性変化も起きており,眼瞼挙筋腱膜とCMuller筋をともに短縮することで眼瞼下垂の改善が得られた.このようにCHorner症候群に対する眼瞼下垂症手術を行う場合は,Muller筋および眼瞼挙筋腱膜の両者を短縮することが望ましいと考える.Horner症候群では眼瞼下垂や眼瞼裂狭小といった眼所見からまず眼科に受診することも珍しくなく,眼科で適切な診断を行うことにより原因疾患の検索から迅速な診断・治療につなげることができる.本症例では紹介元が肺癌治療を行った呼吸器内科であり,Horner症候群の原因として肺癌の再発転移が第一に疑われたため,内科での全身検索により縦隔転移の迅速な診断および治療に至ることができた.Horner症候群の原因には肺尖部や縦隔の腫瘍のほかにも生命に影響する重大な疾患の可能性が存在するため,眼所見からHorner症候群と診断した場合は,眼瞼下垂の治療のみならず,原因疾患の検索のため他科への適切なコンサルトを迅速に行うことが重要である.文献1)JoanFriedrichHorner:Onaformofptosis.KlinMonats-blAugenheilkdC7:193-198,C19692)原直人:Horner症候群CupCdate.CBrainCMedicalC24:C59-65,C20123)KanagalingamCS,CMillerNR:Hornersyndrome:clinicalCperspectives.EyeBrainC7:35-46,C20154)NielsenPJ:Upside-downCptosisCinCpatientCwithCHorner’sCsyndrome.ActaOphthalmolC61:952-957,C19835)DiesenhouseMC,PalayDA,NewmanNJetal:AcquiredheterochromiawithHornersyndromeintwoadults.Oph-thalmologyC99:1815-1817,C19926)KardonR:AreCweCreadyCtoCreplaceCcocaineCwithCapra-clonidineCinCtheCpharmacologicCdiagnosisCofCHornerCsyn-drome?JNeuroophthalmolC25:69-70,C20057)BremnerF:ApraclonidineCisCbetterCthanCcocaineCforCdetectionCofCHornerCsyndrome.CFrontCNeurolVol.10-55;C1-9,C20198)SugiyamaK,KitazawaY,KawaiK:Apraclonidinee.ectsonocularresponsestoYAGlaserirradiationtotherabbitiris.InvestOphthalmolVisSciC31:708-714,C19909)MoralesCJ,CBrownCSM,CAbdul-RahimCASCetal:OcularCe.ectsCofCapraclonidineCinCHornerCsyndrome.CArchCOph-thalmolC118:951-954,C200010)前久保知行:主訴と所見からみた眼科8-3)瞳孔異常.眼科60:1313-1317,C201811)WattsCP,CSatterfuekdCD,CLimMK:AdverseCe.ectsCofCapraclonidineCusedCinCtheCdiagnosisCofCHornerCsyndromeCininfants.JAAPOSC11:282-283,C200712)北川清隆,柳沢秀一郎,山田哲也ほか:ジピベフリンの点眼が有効であった眼瞼下垂のC1例.富山大医学会誌C17:C27-29,C200613)AndersonRL,BeardC:Thelevatoraponeurosis.Attatch-mentsCandCtheirCclinicalCsigni.cance.CArchCOphthalmolC95:1437-1441,C197714)KakizakiCH,CMalhotraCR,CSelvaD:UpperCeyelidCanato-my:anupdate.AnnPlastSurgC63:336-343,C2009***(134)

サリン被害後の眼科的後遺症

2012年10月31日 水曜日

《原著》あたらしい眼科29(10):1435.1439,2012cサリン被害後の眼科的後遺症岩佐真弓井上賢治若倉雅登井上眼科病院ChronicOphthalmologicEffectsofSarinIncidentMayumiIwasa,KenjiInoueandMasatoWakakuraInouyeEyeHospital目的:サリン被害後7年から15年の慢性期における眼科的後遺症についてまとめた.方法:2002年3月から2010年8月に井上眼科病院を受診した305名(男性154名,女性151名.受診時の年齢は男性52.8±12.2歳,女性40.3±10.9歳)のサリン事件の被害者に対して眼科検査(眼位・瞳孔・眼球運動の視診,視力,屈折,眼圧,細隙灯顕微鏡検査,眼底検査)を行い,自覚症状に応じて検査を追加した.結果:自覚症状は眼疲労感が40%と最多で,ついで視力低下感,焦点が合わない,羞明感,眼痛などが多かった.健診の結果をサリンの関与により強制的に分けると,全体の約19%にあたる54例がサリンの関与が最も強く疑われた第4群に相当した.代表的な3例(縮瞳,水平滑動性追従運動障害,調節障害)を提示した.結論:サリン事件から15年以上経過した現在も眼症状を訴える者が多く,そのなかにはサリンとの関連が強く疑われる症例も存在することが判明した.Purpose:Toexaminethechronicophthalmologiceffectsofsarinat7to15yearsafterexposure.Methods:Subjectscomprised154maleand151femalepatients.Weexaminedeyeposition,pupil,eyemovements,visualacuity,accommodation(ifneeded),refraction,intraocularpressure,slit-lampbiomicroscopyandfunduscopy.Results:Themostcommonsymptomwasasthenopia,followedbyvisualloss,blurredvision,photophobiaandocularpain.Effectsofsarinpoisoningwerestronglysuspectedin54patients(19%).Describedindetailare3severelyaffectedcases(miosis,horizontalsmoothpursuiteyemovementdisorder,accommodativeinsufficiency).Conclusion:Manyvictimsstillhaveocularsymptomsat15yearsafterthesarinincident;insomecases,associationwithsarinisstronglysuspectedonthebasisofneuro-ophthalmologicalexaminations.〔AtarashiiGanka(JournaloftheEye)29(10):1435.1439,2012〕Keywords:サリン,縮瞳,水平滑動性追従運動障害,調節障害,慢性期.sarin,miosis,horizontalsmoothpursuiteyemovementdisorder,accommodativeinsufficiency,chronicphase.はじめに1995年3月20日,東京都心の地下鉄駅構内や車内においてサリンが散布されるという事件が発生した1).午前8時過ぎという通勤ラッシュ時間に起きたこの前代未聞の化学テロは,被害者約6,300名,死者13名という大きな被害をもたらし,地下鉄サリン事件と名付けられた.このおよそ8カ月前にも,長野県松本市で同様の事件が起き,松本サリン事件とよばれている2).事件後NPO法人リカバリーサポートセンターにより地下鉄サリン事件の被害者らを対象に健診が行われ,多くの被害者が眼および視覚に関する症状に悩まされていることが判明した.過去には急性期の問題や遅発毒性の問題は報告されている1.10)が,眼症が残存していることは指摘されていてもその詳細は不詳である.そこで眼症状のある者に対して2002年3月より当院で眼科健診を開始し,2010年8月までに300名以上の健診対象者が当院を受診した.このうち約半数は正常であったが,残りの約半数は何らかの眼科的あるいは神経眼科的異常が認められ,そのなかにはサリンの影響が強く疑われる異常も散見された.そこで今回,事件から7.15年後の慢性期の後遺症についてまとめたので,報告する.〔別刷請求先〕岩佐真弓:〒101-0062東京都千代田区神田駿河台4-3井上眼科病院Reprintrequests:MayumiIwasa,M.D.,InouyeEyeHospital,4-3Kanda-Surugadai,Chiyoda-ku,Tokyo101-0062,JAPAN0910-1810/12/\100/頁/JCOPY(119)1435 I方法2002年3月から2010年8月に井上眼科病院を受診した連続する305名の被害者(松本サリン事件,VXガス事件を含む)に対し,自覚症状および眼科的所見についてまとめた.眼科検査は全員眼位,瞳孔,眼球運動の視診,視力,屈折,眼圧,細隙灯顕微鏡検査および眼底検査が行われ,自覚症状に応じて検査が追加された.対象305名の内訳は,男性154名,女性151名,受診時の年齢は男性52.8±12.2歳,女性40.3±10.9歳であった.このうちサリンとの関連を考察すべき3症例については後に詳述する.II結果受診時の問診の記録を用いてどのような眼症状を自覚したかを調べ,重複を許して集計したところ表1のとおりであった.最も多い症状は眼疲労感であり,123名(40%)の受診者が自覚していた.ついで視力の低下(または低下した感じ)77名(25%),焦点が合わない65名(21%),まぶしい58名(19%),眼痛57名(19%),などと自覚症状は多彩であった.初診時に計測した眼圧の平均値は14.2±2.9mmHgであった.サリン後遺症健診結果を,第1群:異常なし,第2群:異常は認められるがサリンの関与は否定的,第3群:異常を認め,サリンの関与は否定できない,第4群:異常を認め,サリンの関与が十分に疑われる,の4群に強制的に分けた(表表1受診時の主訴症状人数%眼疲労感12340.3視力低下感7725.2焦点が合わない6521.3羞明5819.0眼痛5718.7霞む4113.4乾く3812.5頭痛299.5流涙278.9視野狭窄感258.2夜盲227.2その他4514.8表2サリン健診結果結果人数%異常なし15751.2サリンの関与が十分に考えられる5417.7サリンの関与が否定できない5618.4サリンの関与は否定的3812.51436あたらしい眼科Vol.29,No.10,2012表3サリンの関与が十分に考えられる眼異常(重複あり)病名・所見人数過縮瞳22散瞳不十分16調節力障害14瞬目異常9眼球運動異常8化学物質過敏42).その結果,何らかの眼科的異常を認めたものが約半数に及び,全体の約19%はサリンの関与が十分に疑われる第4群に相当した.以下にあげた代表症例はいずれも第4群である.サリンの関与が最も強く疑われた54例の内訳を表3に示す.最も多い異常は,明室での過縮瞳(瞳孔径2.5mm以下とした),暗室での散瞳不十分(瞳孔径4mm以下とした)といった瞳孔異常に関するものであった.過縮瞳を示した例が305例中22例,散瞳不十分であった例が305例中16例(うちいずれの所見も認めたものが8例)と,サリン曝露から10年以上経った今でも縮瞳傾向が残存する例が1割弱認められた.この他,年齢と比べ調節力の低下している例,眼球運動障害や,眼瞼痙攣が多く存在した.第3群には近視化が23例,ほか原因不明の視力低下や中枢性光視症などの視覚異常,視野狭窄感などを含めた.急性期の状況について受診者に問診すると,心肺停止に陥ったような重症例から無症状の例までさまざまであった.さらに,現時点で著明な眼科的異常が認められても急性期には無症状の例も存在した.III症例〔症例1〕縮瞳を認めた50代,男性.主訴:暗いところで見えにくい.現病歴:40歳時に地下鉄サリン事件に遭遇した.事件当時は頭痛・嘔気・視力低下・視野狭窄を自覚し,救急病院に1週間入院のうえ硫酸アトロピンの点滴静注を受けた.退院時には周りが暗く見える,横目を使うと見えにくいといった症状を自覚していた.平成17年4月(50歳時)に当院を受診した.既往歴・内服薬:なし.初診時所見:遠方視力は右眼0.09(1.2×.4.25D),左眼0.09(1.2×.4.75D(cyl.0.50DAx120°),眼圧は右眼16mmHg,左眼14mmHgであった.軽度の結膜充血のほかには前眼部・中間透光体・眼底に異常を認めなかった.瞳孔は正円同大で,径は明室内で2.5mm,暗室内で3.5mmと,明所で過縮瞳の傾向があり,暗所での散瞳が不良であった(120) 症例1明室暗室正常例明室暗室図1症例1:明室での過縮瞳と暗室での散瞳不十分(図1).経過:Prifinium(パドリンR)を処方し経過観察を行ったが改善しないため,5カ月後に中止した.〔症例2〕横書きの文章が読みにくくなった40代,男性.主訴:横書きの文章が読みにくい(縦書きは問題なく読める),眼疲労感,眼痛,頭痛,霧視.現病歴:31歳時に地下鉄サリン事件に遭遇した.事件当時は救急病院の眼科を受診し洗眼を受けたが,このとき縮瞳の指摘はなかった.当時眼症状はなく,その後2回ほど健診を受けたが異常は指摘されなかった.事件3年後(34歳)より眼疲労感を自覚し始めた.2003年2月(39歳時)に当院を初診した.既往歴・内服薬:なし.初診時所見:視力は右眼0.1(1.2×.2.0D(cyl.0.75DAx85°),左眼0.2(1.2×.1.5D(cyl.1.0DAx85°).眼圧は右眼11mmHg,左眼13mmHg,前眼部・中間透光体・眼底に異常を認めなかった.瞳孔径は明室内で3.5mm正円同大.Goldmann視野は正常であった.眼球運動制限はなかったが,垂直滑動性追従運動は正常であったのに対し,水平滑動性追従運動は衝動性であり,滑動性の成分はほとんど検出できなかった(図2).経過:横書きの文章が読みにくい原因として水平滑動性追従運動障害が考えられ,2010年1月まで経過観察を行ったが,改善しなかった.(121)図2水平滑動性追従運動障害症例2の滑動性追従眼球運動の眼球運動電図を示す.上図は水平方向,下図は垂直方向をそれぞれ示している.水平方向は滑動性成分がほとんどなく衝動性となっているが,垂直方向はほぼ正常の滑動性運動が可能である.〔症例3〕調節障害を認めた30代,女性.主訴:両眼の視力低下.現病歴:24歳時に地下鉄サリン事件に遭遇した.事件当日は急性期病院に1泊入院し,その後2回健診を受けたが異常は指摘されなかった.事件当時は裸眼視力が両眼とも0.8程度であったが,その後近視が進行し,眼鏡を2回作りなおした.2002年12月(32歳)に当院を初診した.既往歴・内服:2007年よりネフローゼ症候群のためプレドニゾロン内服.初診時所見:視力は右眼0.15(1.2×.2.25D),左眼0.09(1.2×.2.25D(cyl.0.5DAx160°),受診2カ月前に作製した眼鏡装用下での視力は右眼(0.4×.1.0D(cyl.0.5DAx40°),左眼(0.3×.1.0D(cyl.0.5DAx155°)であった.他覚的屈折はオートレフケラトメータにて右眼.2.75D,左眼.2.75Dであった.眼圧は右眼12mmHg,左眼13mmHgであった.前眼部・中間透光体・眼底に異常はなかあたらしい眼科Vol.29,No.10,20121437 った.瞳孔径は明室内で3.5mm正円同大,暗室内5.0mm正円同大であった.眼球運動にも異常はなかった.経過:2009年5月(38歳)に当院に2度目の受診をし,この6年半の間にきわめて緩徐に両眼の視力が低下したと訴えた.視力は右眼0.1(0.7×.2.0D(cyl.0.50DAx70°)左眼0.05(0.7×.2.25D(cyl.0.50DAx180°)であった.(,)他覚的屈折値は右眼.2.25D,左眼.2.50Dと前回受診からの6年半で近視の進行はなかった.前眼部・中間透光体・眼底に異常はなかった.瞳孔径は明室内で3.5mm正円同大,暗室内で右眼6.5mm,左眼7.0mmであり,対光反射は両眼とも正常で,RAPD(相対的入力瞳孔反射異常)陰性であった.中心フリッカ値は右眼39.47Hz,左眼37.46Hzと正常範囲内であった.Goldmann視野は正常範囲内で,中心部は両眼ともI/1-cイソプタまで測定が可能であった.全視野ERG(網膜電図),SPP(標準色覚検査表)IIにても異常は指摘されず,矯正視力低下の原因は不明であった.連続近点検査を行ったところ,完全矯正レンズでは遠点・近点ともに視標を明視することができず,+1D加入し測定した.右眼は遠点3m,近点は25.35cmと値がばらついた.左眼は遠点が1m,近点は33cmであり,調節力はおよそ3Dであった.IV考按サリンや有機リン中毒の眼所見としては縮瞳が有名である.1994年に起きた松本サリン事件曝露後1日目の平均瞳孔径は1.5mm程度であった10)と報告されている.この急性期の報告では曝露9日目には径4mmと改善していたが,今回の健診では先に示したとおり症例1に代表されるように縮瞳傾向を示すものが1割ほど認められた.松本サリン事件後に電子瞳孔径を用いた報告によると,50代のサリン非曝露群における瞳孔径は暗室内で5.5±0.8mm,光刺激後の最小径は3.7±0.7mm11)なので,これと比較して縮瞳していることがわかる.症例1では暗いところで見えにくいと訴えていたが夜盲を呈するような疾患は見当たらず,暗室内で散瞳不十分なことと関連する自覚症状と推定した.このように慢性期の縮瞳傾向はサリンの関与が十分に考えられるため,表2の第4群に含めた.明室内での縮瞳傾向だけでなく,暗室内で十分に散瞳しない例が16症例あった.これについては急性期に瞳孔括約筋に対し短時間で相当な負荷がかかったために,十分に括約筋が弛緩しなくなったものと推測した.しかし,たとえばHorner症候群による縮瞳では見えにくいという訴えにつながらないことを考えると,縮瞳そのものの影響だけでなく明るさと瞳孔径の対応を制御する中枢機能の破綻が関与している可能性が考えられる.同様に,虹彩に連続する毛様体筋に対する中枢制御の破綻により調節障害が起きている可能性も指摘しておきたい.曝露時重症者〔コリンエス1438あたらしい眼科Vol.29,No.10,2012テラーゼ(ChE)値12%〕では数年経過しても縮瞳が残存したとの報告12)があるが,今回の健診では急性期のChE値は調べておらず関係は不明であった.眼球運動系や調節系に異常をきたした例も存在した.眼球運動系に異常をきたした例として,先の症例2に示したような水平滑動性追従運動障害があげられる.慢性有機リン中毒で血球ChE活性が低いほど滑動性追従運動に階段状波形が出現しやすいとの報告7)があり,急性サリン中毒の後遺症として水平滑動性追従運動障害が起きている可能性が示唆され,今回の健診でも第4群に含めた.しかし,慢性有機リン中毒における過去の報告では水平方向よりも垂直方向の障害が顕著であったとする報告が多い13).調節系に異常をきたした例としては,先の症例3があげられる.1960年以前の過去の報告でも,40歳としても通常4D以上の調節力を有し14),現在は当時よりさらに15年前後平均余命が伸びているため,同じ40歳でも4D以上の良好な調節力があると考えられる.症例3においては38歳で調節力が3Dしかなく,サリン曝露により調節力が低下していることが示唆された.サリンにより瞳孔運動障害をきたすのと同様に毛様体にも障害をきたした結果,調節障害をひき起こしたと推測される.なお,本例ではサリン曝露後に近視化したとの訴えがあった.すなわち調節痙攣をきたした可能性があり,それが不可逆性になったと考えれば,これで調節余力がなくなり,調節力低下に帰着したと推定できる.この他に眼瞼痙攣は基底核を含む中枢神経回路の障害により瞬目異常をきたし,羞明や眼痛などの相当な眼不快感を生じる疾患で,化学物質や大きなストレスが引き金となる15)ため,この第4群に含めた.急性期には眼圧が低下したとの報告5,8)があり,Katoら5)によれば,サリン曝露2時間後の眼圧の平均値は11.6±1.9mmHgと比較的低値であったが,瞳孔径が改善した後の眼圧は14.6±1.8mmHgに上昇した.筆者らの健診では先述のとおり眼圧の平均値は14.2±2.9mmHgと低下していなかった.両眼とも10mmHgに満たない低眼圧例が2例存在したが,いずれも瞳孔は正常であった.したがって,慢性期においては眼圧低下は明らかではなかったといえる.今回の調査における眼自覚症状と曝露1年後の自覚症状を比較した.山口らの報告8)によると,地下鉄サリン事件1年後の自覚症状では眼疲労感が最も多く全体の34.6%を占めた.松本サリン事件後の那須らの報告16)は眼症状に限らない調査であるが,何らかの自覚症状のある58名(アンケート回答者1,237名中)のうち目の疲れを訴えた者が43名と第1位,ついで視力低下が34名で2位と眼症状が上位を占めていた.筆者らの調査でも,目の疲れと視力低下または視力低下感がそれぞれ1位,2位と上位であった.全身のなかで眼症状の割合が高い理由としては,気化したサリンが主と(122) して気管および結膜より吸収される17)ことのほか,気体は血液脳関門を超えるため,視覚系,調節系,眼球運動系に関与する高次脳機能障害が誘発されたためと考えた.また,山口らによれば曝露1年後の症例のうち54%に調節力の異常を認めたが,筆者らの調査では明らかな調節力障害は表3のように14例(4.6%)と少なかった.これは慢性期に至るまでに回復した可能性に加え,被害者の高齢化により調節力障害の原因がサリンであるか加齢であるかの区別が困難になったことが考えられる.今回の健診は日常眼科診療に用いる検査機器を用いて行ったため,個々の異常のメカニズムを説明するには限界があると認識している.しかしながら,サリン事件の被害者のなかには15年以上経過した現在も眼症状を有する者が多く,そのなかにはサリンとの関連が強く疑われる症例も実際に存在することを知ることは重要であると考え,ここに報告した.文献1)SuzukiT,MoritaH,OnoKetal:SarinpoisoninginTokyosubway.Lancet345:980,19952)MoritaH,YanagisawaN,NakajimaTetal:SarinpoisoninginMatsumoto,Japan.Lancet346:290-293,19953)SidellFR:SomanandSarin:Clinicalmanifestationsandtreatmentofaccidentalpoisoningbyorganophosphates.ClinToxicol7:1-17,19744)RengstorffRH:Visionandocularchangesfollowingaccidentalexposuretoorganophospates.JApplToxicol14:115-118,19945)KatoT,HamanakaT:Ocularsignsandsymptomscausedbyexposuretosaringas.AmJOphthalmol121:209-210,19966)真鍋洋一,山口達夫,大越貴志子ほか:サリン患者急性期の眼症状と経過.臨眼50:765-767,19967)谷瑞子,秦誠一郎,清水敬一郎ほか:サリン曝露後にみられた瞼球癒着.臨眼50:1845-1848,19968)山口達夫:サリン中毒の眼症状と治療法.有機リン中毒(サリン中毒)─地下鉄サリン事件の臨床と基礎(家城隆次編著)p50-57,診断と治療社,19979)OkumuraT,HisaokaT,NaitoTetal:AcuteandchroniceffectsofsarinexposurefromtheTokyosubwayincident.EnvironToxicolPharmacol19:447-450,200510)NoharaM,SegawaK:Ocularsymptomsduetoorganophosphorusgas(Sarin)poisoninginMatsumoto.BrJOphthalmol80:1023,199611)野原雅彦:サリン曝露後の眼科検診について.松本市の保健衛生(松本市)別冊22:42-51,200012)野原雅彦:松本サリン事件後の健康診断における眼科所見.臨眼53:659-663,199913)石川哲,宮田幹夫,若倉雅登:環境汚染物質などによる眼症─特に有機燐剤の視覚毒性について─.日眼会誌100:418-432,199614)奥山文雄:調節.眼科プラクティス6,眼科臨床に必要な解剖生理(大鹿哲郎ほか編),p339-343,文光堂,200515)清澤源弘,鈴木幸久,石井賢二:眼瞼痙攣の誘因と原因.神経眼科20:22-29,200316)那須民江:松本市における有毒ガス中毒事件健康調査報告書.松本市の保健衛生(松本市)別冊22:52-82,200017)OhbuS,YamashinaA,TakasuNetal:SarinpoisoningonTokyosubway.SouthMedJ90:587-593,1997***(123)あたらしい眼科Vol.29,No.10,20121439