連載56Myboom監修=大橋裕一第56回「安藤伸朗」本連載「Myboom」は,リレー形式で,全国の眼科医の臨床やプライベートにおけるこだわりを紹介するコーナーです.その先生の意外な側面を垣間見ることができるかも知れません.目標は,全都道府県の眼科医を紹介形式でつなげる!?です.自己紹介安藤伸朗(あんどう・のぶろう)済生会新潟第二病院私は仙台生まれで,3?6歳までは盛岡(仁王小学校入学)で,小学校・中学校時代は青森県三沢市で過ごしました.高校は青森県立八戸高校で,1977年(昭和52年)に新潟大学医学部卒業後,新潟大学眼科に入局.1990年から1年間,米国Duke大学に留学しました.1996年に済生会新潟第二病院眼科に赴任し,現在に至っています.眼科医として大学に18年11カ月在籍し,現在の病院には20年5カ月勤務したことになります.臨床のmyboom:臨床第一線で40年1.そうだ!糖尿病を専門にしよう親父が眼科医だったこともあり,医学部卒業後はすんなりと新潟大学の眼科に入局しました.当時の新潟大学眼科は,岩田和雄教授の緑内障と大石正夫助教授の感染症が2枚看板で,そのほかの分野はぽちぽちでした.聴診器から離れるのが嫌で,全身管理と密接なかかわりをもつ糖尿病班(チーフ:難波克彦先生)に所属し,さらに手術も興味があったので網膜?離班(チーフ:園田日出夫先生)にも所属しました.網膜?離班では毎日のようにバックリング手術を行いました.糖尿病班では,来る日も来る日も蛍光眼底撮影と光凝固(キセノン)をこなしていました.当時は糖尿病網膜症といえば,群馬大学のパノラマ蛍光眼底が一世を風靡しており,症例数も少ない私は内科の勉強会などに混ぜていただき,症例報告などを細々としておりました.2.そうだ!硝子体手術をしよう1971年,Machemerが硝子体手術を報告.1976年,松井瑞夫教授(日大駿河台)がわが国最初の硝子体手術施行.私が眼科医になった1977年はそういう時代でした.1980年には新潟大学でも硝子体手術が始まりました.糖尿病網膜症の治療も光凝固ばかりでなく硝子体手術が導入され,いつも硝子体手術の助手についていました.術者の難波先生が緑内障の研究を深めるために米国に留学することになり,私は卒後5年目で硝子体手術の術者になってしまいました.1980年代は全国各地で毎月のように硝子体手術の講習会が行われていました.手術機器の発展も目覚ましく,次々と硝子体手術マシーンや空気液置換装置・眼内レーザー等々が開発されました.当時の硝子体手術は手術時間2~3時間(術中に後極部に網膜裂孔を作るとさらに1~2時間)の大手術でした.術前に部品を組み立て,終了すると分解して蒸留水で洗浄し空気で乾燥させていました.術前に30分,術後に1時間を要する手術だったのです.そんな状況でしたが,術者となって10年を過ぎるころには手術成績も向上し,全国でも手術件数の多い大学になっていました.3.そうだ!留学しよう入局して10年を過ぎた頃,当時の国立大阪病院の田野保雄先生と杏林大学の樋田哲夫先生の推薦で,1990年から1年間Duke大学に留学することができました.当時のDuke大学にはRobertMachemer,BrooksMcCuenII,EugenedeJuan,Jrが揃い,米国でも硝子体手術ではトップクラスの大学でした.研究はMRIとガドリニウムを使用し家兎眼を用いての血液眼関門の仕事,さらにはMarkHumayunらの人工網膜の仕事にも参加しました.当時Duke大学眼科に日本から留学していたメンバーは,大平明弘先生(現・島根大学眼科教授),平形明人先生(現・杏林大学眼科教授),佐藤幸裕先生(前・自治医大眼科教授),中武純二先生(中武眼科クリニック)といった面々でした.先輩には田野保雄先生(大阪大学教授),樋田哲夫先生(杏林大学教授)らがおられます.こうして留学することにより国内外に多くの友人・知人を得ることができました.趣味のmyboom1.かつてはアスリートだった小学校4年から野球を始めました.三沢という町は米軍基地のある町で,リトルリーグも盛んでした.6年の時,学校の野球部キャプテンを務めました.しかし,中学の野球部は夜まで猛練習で有名でした(昭和44年に甲子園大会準優勝した三沢高校は,私の1年先輩と同級生です).太田・桃井・菊池などスーパースターがゴロゴロいたため,野球は小学校で終わりにしました.中学・高校・大学では陸上部でした.中学では2000mを中心に試合に出ましたが,指導者もいなくて,陸上競技マガジンを読み漁り,当時は珍しかったインターバルトレーニングを導入しました.中学2年生の時に青森県で5位にランクされました.後にも先にもこれが人生で最高の陸上での成績です.大学1年の東医体(東日本医科学生総合体育大会)5000mは大会前から優勝候補でした.自己のタイムが前年の東医体優勝タイムより10秒は上回っていたからです.ところが本番では3000m付近から失速し,着外という惨敗でした.当時の東医体陸上競技は1日ですべての競技を行います.8月上旬という真夏の一番暑い午後2時半ごろに5000mの決勝なのです.北国出身の私は暑さに弱かったのです.東医体5000mでは,速く走れる者ではなく,暑さに強い者が勝つということを悟りました.そこで私は「私は暑さに強い,太陽は大好きだ」と自己暗示をかけました.町を歩く時も日陰は歩かず日向を歩きました.こうした意識改革のお陰なのか,翌年大学2年の時には東医体5000mで優勝し雪辱を果たしました.(80)今でもスポーツは好きですが,やるほうではなく,観るほうがメインです.一応,病院では8階の病棟までエレベーターは使わず,階段を上り下りしています.2.帽子2年前の「父の日」に,帽子をプレゼントされました.以来,帽子にはまっています.春夏秋冬用に5~6個の帽子を揃えています.メーカーはボルサリーノ,ノックス等々.もっと欲しいところですが,価格のほかに,家での保管場所確保に難があります.最近は街を歩いても,とくに若い人を中心に帽子の人が多いのですが,眼科の学会では少数派です.「眼科の学会で帽子を被っているのは,先生と,荻野誠周先生と小椋祐一郎先生,竹内忍先生くらいなので目立ちますね」とわざわざ言ってくださる方もおります.眼科医の中にも帽子愛好家が増えることを期待しています.ここまで書いて気が付いたのですが,本編は現状よりも昔話が多くなってしまいました.これ以上原稿の締め切りを遅らせるわけにもいかず,このままの提出となってしまいます.年寄りの昔話にお付き合いいただきありがとうございました.次のプレゼンターは,信州大学眼科の村田敏規教授にお願いしました.糖尿病網膜症の発症進展にVEGFが関与していることをいち早く見出した新進気鋭の先生です.ご期待ください.注)「Myboom」は和製英語であり,正しくは「Myobsession」と表現します.ただ,国内で広く使われているため,本誌ではこの言葉を採用しています.(79)あたらしい眼科Vol.33,No.9,201613210910-1810/16/\100/頁/JCOPY写真1Duke大学眼科・硝子体手術講習会懇談会にて(1998年8月)左から樋田哲夫先生(杏林大学),田野保雄先生(大阪大学),筆者.写真2帽子を被ってセルフィー(2014年春)(80)