JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑭責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑭責任編集浜松医科大学堀田喜裕雲の上の人が目の前に(JinKinoshita先生にお会いして)笹部哲生(TetsuoSasabe)大阪府立呼吸器・アレルギー医療センター,診療局長兼眼科主任部長1979年大阪大学医学部卒.1983年同大学院修了,大阪府立羽曳野病院赴任.1986年大阪大学眼科助手.1987年NIH留学.1989年BascomPalmerEyeInstitute留学.1990年帰国.1991年大阪府立羽曳野病院赴任,1995年眼科部長.2003年呼吸器・アレルギー医療センター(旧羽曳野病院)眼科部長.2010年同医療センター診療局長兼務.現在に至る.●JinKinoshita先生のご名声をうかがって★私が大阪大学医学部の眼科に大学院生として入った1979年当時,阪大眼科の医局では水晶体の研究はまったく行われておりませんでした.水晶体の研究に関する生の情報に接するのは,もっぱら当時名城大学教授の故岩田修三先生が毎年医局にご講演に来てくださるときが唯一の機会でした.その岩田先生にJinKinoshita先生のことを幾度となくお話をしていただきました.戦時中アメリカで苦労をされたKinoshita先生は,日系人の地位向上のため,ご自身の研究はもとより日本人の研究の手助けのため,留学の便や,研究の機会を与えることに尽力されている偉大な先生として紹介されておられました.大学院生として眼科に入った私の研究テーマは網膜芽細胞腫の分化でしたが,水晶体にも興味をもっていたため,水晶体の論文を調べるうちに,生化学的研究の主たる研究者としてKinoshita先生の業績が,星のように数多く出てくることに驚きと先生に対する畏敬の念をもつようになりました.●JinKinoshita先生にお目にかかって★私の実質的な水晶体の研究は,網膜芽細胞腫の研究で学位を取ったのちにはじまりました.まず,ウサギ水晶体上皮細胞の株細胞を樹立し,継代培養中のクリスタリンの動向をみることで,水晶体細胞の老化の指標にならないかという見地から研究を始めました.その後,各クリスタリン分画のモノクローナル抗体を作製して,より精密に水晶体の老化をクリスタリン蛋白の面から解析しようとしていた矢先,1987年に網膜芽細胞腫の研究の(81)ためNEIに来ないかとGeorgeInana先生にお誘いを受けました.留学を以前から希望しておりましたので一も二もなくお受けしましたが,水晶体の研究は一旦お休みになりました.Inana先生のところでの研究テーマは網膜芽細胞腫の劣勢癌としての特性を培養細胞で証明することでした.1987年の12月末にNIHに着きました.その年のうちか,1988年に正式に私がNIHで採用になってすぐかは今ではさだかではありませんが,Inana先生につれられてScientificdirectorのKinoshita先生のお部屋にご挨拶に参りました.雲の上の存在であったKinoshita先生にお会いできるとあって,私は非常に緊張しておりましたところ,Kinoshita先生は私に日本では何をしてきたのかと尋ねられました.網膜芽細胞腫の分化についての研究で学位をいただき,水晶体の老化の研究を少しはじめておりますと申し上げると,私が水晶体の研究を日本でしていたことに大層興味をもたれた様子で,細胞のことや培養方法などお尋ねになりました.Inana先生のもとでは,網膜芽細胞腫の細胞融合実験を通じて分子生物学的手法を学びたいと思っていますと申し上げると,Kinoshita先生はGeorgeのもとで仕事をすればうまくいくよといわれました.Inana先生に対する信頼と,私に対しても期待していただいていることが感じられ身の引き締まる思いをしたことが最初のKinoshita先生との出会いでした.●忘れられないエピソード★NEIでの勤務中は,直接Kinoshita先生のご研究のお手伝いをしていたわけではありませんでしたので,とくに折り入ってのお話はありませんでしたが,Building6あたらしい眼科Vol.31,No.2,20142410910-1810/14/\100/頁/JCOPYですれ違うたびに,研究の進捗状況を気にかけていただきました.先生との思い出深い出来事は,先生の送別会のときに起こりました.NEI主催で先生の送別会が開かれ順次各テーブルにメインディッシュが運ばれ始めたころ,突然のボヤ騒ぎで送別会が中止になりました.先生のご挨拶も聞けないうちの中止でしたから,メインディッシュを食べ損ねた人が大勢おられたと思います.我々のInanaグループは端のテーブルに座っていましたので,最初に配膳されたおかげで,なんとかありつくことができました.Kinoshita先生とはお話もなにもできなかったですが忘れられないエピソードになりました.●JinKinoshita先生とのお別れ★Kinoshita先生に最後にお会いしたのは1989年にInana先生がマイアミのBascomPalmerEyeInstituteへ移られることになり,我々日本人フェローも移動するため一緒にご挨拶にいったときでした.Kinoshita先生は,さっそうとされておられ,まだまだ現役という雰囲気でした(写真).我々フェローは少し早目にNEIをたち,Inana先生はそのあとNEIの仕事を片づけてから,●★マイアミへ移ることをKinoshita先生にお話しされておりました.新天地マイアミでの研究や生活に不安を感じている我々に,Kinoshita先生には以前と同じ言葉をかけていただきました.Georgeのもとならうまくいきますよ.Inana先生がご自身の出発の日取りを述べられると今度はInana先生に向って,戻ってきてNEIのScientificDirectorになったらいいと日本語でいわれました.Inana先生は無言でした.Kinoshita先生の言動のなかでもっとも強烈な印象として今もその場面が目に浮かびます.おそらくご自身も含め多くの日本人研究者がNIHから去っていくことに寂しさがつのり,優秀な教え子であるInana先生にはNIHにいつの日か戻ってきてほしいという思いが,その言葉になったのだと思います.当時日本人研究者はNEIのみならずNIH全体で米国人以外では最大の勢力を誇っていましたが,現在ではその人数は減少し,Kinoshita先生の心配が現実のものになってきております.Kinoshita先生の願いは,日本人の研究者が世界中で活躍し続けることにあると感じました.●帰国して★私は,マイアミのBascomPalmerでの1年弱の勤務を終え1990年の3月末に帰国しました.帰国後の研究は,網膜芽細胞腫についてではなく,水晶体を主として行ってきました.まず,留学以前からの念願であった,クリスタリン分画に対するモノクローナル抗体を作製し,水晶体上皮細胞の継代によるクリスタリン変化を同定し,日眼誌に発表できました.その後,水晶体上皮細胞の接着性に注目し,オリゴペプチドが水晶体とコラーゲンなどの細胞外物質との接着を阻害することを発見し,後発白内障予防の可能性を示唆する論文を発表することができました.NEI留学から数えて20年あまり白内障関連の仕事を続けることができたのは,Kinoshita先生にお会いでき,少しでもKinoshita先生がされてきた研究の一端に携わりたかったからにほかなりません.Kinoshita先生に直にお目にかかり,数々のお言葉をうかがう機会に恵まれたことに感謝し,Kinoshitaのご冥福をお祈りいたします.●★242あたらしい眼科Vol.31,No.2,2014(82)