———————————————————————-Page1あたらしい眼科Vol.27,No.3,2010345(67)恩師コーガン教授ハーバード大ハウ研究所で北に向かう高速幹線道路は,高い橋を渡って,ボストンの市街から抜け出るようになっている.その下には大きい入江と河があり,広々とした軍港と埠頭をかかえている.この巨大な橋の完成を心待ちにしていた尊父に,心ゆくまでこの橋を見てもらうため,特別にベッドをしつらえた自動車で,数回往復のドライブをしたという話を,ハーバード大学到着直後聞いた私は,人情に国境のないことを感じたものである.これが私の恩師コーガン教授である.私は九大病理学教室で可愛がっていただいた今井環教授にはげまされて,ボストンに移ったのは1952年であった.そこで私を迎えて下さったのが,この一生のうち,第二の恩師となったコーガン教授である.新たに大きくなったハーバード大学のハウ眼科研究所の所長であった彼は,1950年,広島へ原爆の影響調査のため,来日された.それが私の当地へ来てしまうきっかけとなったのである.1952年,彼の下に,私を始め10人ばかりの研究者が集まり,眼と視力の研究を近代的な考えで始めるようになった.なれえぬ英語でもたもたしている私に,何らの異国感を起こさせなかったのは,研究室のふん囲気が九大の今井研究室と大差なかったせいだと思う.ボストンの朝7時はうす暗い.集談会が毎朝7時に始まる.10時のお茶,12時には一同サンドウィッチをもって教授の部屋に集まる.そうして仕事のこと,雑学を,一同話し合うのである.コーガン教授は,時々我々の進む方向を是正してくれるけれども,命令を受けた事はない.先人の言っていること,本に書いてあることよりも,本人の見た生の所見を最重視していた彼は,我々を自由自在に泳がせてくれたのである.このような頭脳の接触が25年もつづいたのである.いくらぼんやりしていても,この生活を毎日繰りかえせば,何とかモノになる.私は眼のことは,何も知らないでハウ研究所に入ったが,かえってそれがよかった気がする.身についた知識を積み重ねることができたからである.研究室で,彼はいつも,プロ意識の強い学者たちにとりまかれていた.プロの集まりとは,実に美事なものである.彼の研究所は1960年代には名実共に世界一の存在となり,私もそのおかげで,世界の人々と交際できるようになった.偶然,私の家が近くだったので,コーガン教授と私は度々車の運転を半々した.この通勤の半時間も,実に有意義であった.不思議と,仕事の話をして,よく合議したのである.また,コーガン家の4人のお嬢様が順々に着た衣類は一まわり小さい私の4人の娘に次々と下げられていった.家族的にも親しくしていただいたのである.彼の停年退職の際,私はキノシタ君と共に,もと0910-1810/10/\100/頁/JCOPY眼研究こぼれ話桑原登一郎元米国立眼研究所実験病理部長●連載③コーガン教授(研究室で撮影)———————————————————————-Page2346あたらしい眼科Vol.27,No.3,2010眼研究こぼれ話(68)同僚のクッパー博士が所長となった国立眼科研究所にやって来たが,コーガン教授にもお願いしてワシントンに来ていただいた.昔,ハーバード大学で送ったと同じ生活をここでまた,益々御元気な老教授をかこんで送っている.しかし彼を老人と言えないことがある.先年,先生とドイツを旅行したとき,バーバリアの美しい山嶽地で,はるか高い峰に小さいカフェのあるのを見つけた.先生と二人でそこへ向かって登り始めたのである.すこしの調子も落とさないで,どんどん進む彼に,私はどんなにしてもついて行けない.途中でくたばり,休憩し,半死半生で登りつめたときには,先生は大ジョッキのビールをかたむけ,その部落産のチーズをおいしそうに頬張っていた.私は先生には絶対に追いつけないことを,思い知らされたのである.(原文のまま.「日刊新愛媛」より転載)☆☆☆赤色光の温あんぽう器・生体に対して浸透力のある赤色光を照射してマイボーム腺及び眼瞼を5分間暖めます。マイボーム腺機能不全による疲れ目や慢性BUT短縮タイプによるドライアイ症に。¥18,900(税込み)ウエットドライアイ用眼鏡カバー・常用している眼鏡に装着できる眼鏡カバーで、優れた保水性を持つ加湿用チップを内蔵しています。ドライアイの人やパソコンの使用などで目が疲れる方、また手術などの仕事で目を酷使する方に。¥4,515(税込み)<加湿用チップ15セットを含む>株式会社セプト〒154-0002東京都世田谷区下馬5-6-1http:://home.catv.ne.jp/rr/captTEL03-3412-7055FAX03-3412-7033