親子でお世話になったKinoshita先生岩田岳(TakeshiIwata)国立病院機構東京医療センター感覚器センター分子細胞生物学研究部1988年名城大学大学院農学研究科卒.1988年NEIVisitingFellow.1989年BascomPalmerEyeInstituteResearchFellow.1991年NEIVisitingScientist.1999年国立病院東京医療センター臨床研究部主任研究員.2004年国立病院機構東京医療センター感覚器センター室長.2007年同感覚器センター部長.現在に至る.JinH.Kinoshita先生には親子でたいへんお世話になりました.Kinoshita先生のお誘いをいただき,Nation-alEyeInstitute(NEI)へ留学することになりました.Kinoshita先生がいらっしゃらなければ今とは全く異なった人生を歩んでいたと思います.Kinoshita先生にお会いしたのは1967年12月で,ご自宅に私の家族が招待され,8歳の私は青いダンプトラックをクリスマスプレゼントにいただいてリビングルームを走り回ったことを覚えています.私の父,岩田修造はこの年,千寿製薬の研究員としてボストンのRetinaFoundationに留学し,2年後ハーバード大学HoweLaboratoryofOph-thalmology,MassachusettsEyeandEarInfirmaryのKinoshita先生の研究室に移籍することになりました.白内障の最初のモデルマウスであるNakanoマウスを研究室に持ち込んで精力的に研究したようです.帰国後も家族の交流は続き,Kinoshita先生と奥様のKayさんが神戸の自宅にいらっしゃいました.私が大学院生のときにはKinoshita先生のご自宅に泊めていただき,NEIを見学させていただきました.1988年,米国で分子生物学を勉強したいと考えていた私に対してKinoshita先生は「分子生物学は核酸ACGTの研究だから生物種など関係ない,眼科研究でも分子生物学は十分に勉強できる」といわれ,脳回転状網脈絡膜萎縮症(GyrateAtro-phy)の遺伝子を解明したGeorgeInana室長の研究室に留学することになりました.すでに順天堂大学から堀田先生や藤木先生そして大阪大学から笹部先生が着任されており,2カ月後には同じく順天堂大学から村上先生が参加されました.当時のNEIは眼科分子生物学のメッカであり,多く(73)の優秀な研究者が集まっておりました.一直線に伸びるBuilding6の廊下の端に立っていると,忙しく部屋を出入りする研究者の姿がありました.このような活気あるNEIのIntramuralResearchを指揮していたのがKinoshita先生です.Kinoshita先生は部長・室長に自由を与える一方,研究の質には厳しい先生でした.特にKinoshita先生がご専門のAldoseReductaseを担当していたPeterKedar先生やDebbieCarper先生らは厳しい競争にさらされておりました.右も左もわからない20代の私に対してKinoshita先生とKayさんは優しく見守ってくださいました.当時のNEIでは,Kinoshita先生によってNICHDから引き抜かれたJoramPiatigorsky先生が最新の分子生物学的手法をNEIに広め,クリスタリン遺伝子のクローニング,その転写制御因子の解明,網膜特異的な遺伝子の探索や連鎖解析などが行われていました.私もX-LinkedRetinitisPigmentosaの連鎖解析を最初の研究テーマとしていただきました.当時のNEIでは多数のCell,Nature,そしてScienceに論文が発表され,NEIの黄金時代ともいわれています.Inana先生がBascomPalmerEyeInstitute(BPEI)の助教授として着任することになり,日本人の笹部先生,村上先生と私の3名が同行して,分子生物学の研究室を立ち上げることになりました.それから2年後の1991年には再びNEIに戻った私はKinoshita先生の信頼の厚いCarper先生の研究室でAldoseReductase(AR)とSorbitolDehydrogenase(SDH)の研究を行うことになりました.Carper先生は現在NEIのDeputyDirectorとして忙しい毎日を過ごされています.このときKinoshita先生の本命であるARは厳しい競争の只中あたらしい眼科Vol.30,No.10,201314170910-1810/13/\100/頁/JCOPYでした.競争は以下の順番で展開されました.まずはARcDNAクローニング,続いてARリコビナントタンパク質の発現,さらにARタンパク質の結晶化と構造解●★析による活性部位の決定,そして最後はAR阻害薬の開発競争です.私がBPEIからNEIに戻って間もなくKinoshita先生は退官され,10年後にはCarlKupfer先生(NEI初代所長)も退官されてNEIの一時代が終わりました.この27年間の間に日本人を含む多くの外国人がNEIで勉強し,このNEI海外ネットワークは今でも拡大しています.私は2013年2月にSieving先生(現NEI所長)にお呼びいただき,NEIAudaciousGoalMeeting(http://www.nei.nih.gov/agmeeting/)に参加させていただきました.世界中から集まった約200名の眼科研究者が小グループに分かれ,今後15年を見据えた眼科研究の方向性を2日間部屋に閉じこもって議論する企画です.この会議で感じたことは参加者全員が何らかの形でNEIとつながりをもっていることです.これほど世界に影響力のある眼科研究組織の基礎を構築したのはKinoshita先生の人選,長期展望,指揮力,そして面倒見の良さだと考えます.近年日本でも検討されているNIH構想を実現させるためには,日本にもこのような先生の存在が不可欠であると考えます.私は父と違ってKinoshita先生に直接指導を受けることはありませんでしたが,幼少のころからNEI留学までKinoshita先生と奥様のKayさんにはたいへんお世話になりました.心よりお二人のご冥福をお祈り申し上げます.●★1418あたらしい眼科Vol.30,No.10,2013(74)