JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑰責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑰責任編集浜松医科大学堀田喜裕Dr.JinH.Kinoshitaとの出会いNIHで学んだこと田中孝男(TakaoTanaka)エビスクリニック眼科,東京医科大学眼科客員教授1984年東海大学医学部卒業.1984年東京医科大学眼科学教室入局.1986年米国国立衛生研究所NIH,米国国立眼研究所NEIに留学.1988年東京医科大学眼科学教室助手.1994年東京医科大学八王子医療センター眼科講師.1997年東京医科大学眼科学教室講師.2001年厚生中央病院眼科部長,東京医科大学派遣助教授.2009年東京医科大学八王子医療センター眼科教授,東京薬科大学客員教授.2012年エビスクリニック眼科院長,東京医科大学客員教授,現在に至る.●はじめに★89歳でご逝去されたDr.Kinoshitaに心から追悼の意を表したいと思います.先生はNIH(NationalInstututesofHealth),NEI(NationalEyeInstitute)の職員にきわめて平等に接する方でした.お仕事は米国のみならず世界的に大変幅広いものでしたが,眼科・視覚領域の研究における日米交流の発展にはことのほか情熱を傾けてくださいました.私は,そのお心遣いの下に,そして米国の人びとの支えを受けて学ばせていただいた一人に過ぎませんが,先生のご逝去に接して,先生の優しいお人柄を思い出しながら,心から追悼の気持ちを捧げたいと思います.●出会い★研修医を終了したばかりの1986年8月,NIHに到着した5日目,NEIを運営する事務所でDr.Kinoshitaと出会います.2年間の初期臨床研修を終えたばかり,研究実績に乏しかった私でしたが,Dr.IgalGeryが主宰するLaboratoryofExperimentalImmunologyのsectionにGuestResearcherとして着任いたしました.この身分は,自前で留学する身分で,日本から持参した所持金がつきれば帰国せざるを得ない立場です.学位を持っていなかった私には,公的奨学金の申請には制限がありました.生活してゆくため,私的な奨学金に期待するしかありません.企業からの支援に応募すべく,書類をもらいにNIHの広いキャンパス内の,NEIを管理する人事課のような事務所を訪ねました.秘書さんと奨学金の種類や応募資格を確かめていますと,白いシャツの初老の東洋人が通りかかり私を呼びと(93)めたのです.英語力の乏しかった私は,その方が発した名前を良く聞き取れず,誰なのか十分認識できないまま,わかったふりをしながら挨拶を交わし「日本から眼免疫を学びに来たが生活費が必要なので奨学金に応募したいと思う.企業からの支援に応募したくて,募集内容を調べています」と申し述べました.すると「僕は昨日,名古屋で催されたICERから帰ったところだよ.楽しい会だった.お金のことは心配するな」といい,その場で秘書さんになにか一言伝えて立ち去ったのでした.申請書の入れられた厚いファイルを閉じながら「おめでとう」と私に告げる秘書さん.キョトンとしている私には,米国政府からfellowshipが降りたことを理解するには少々時間がかかりました.これがDr.Kinoshitaとの出会いでした.その年の11月から初任給1,500ドルをいただきました.通貨が自由化してまだ間もない,1ドル約300円を超えていた時代です.日本で月3万円の給料を大学から支給されていた私にとって破格の待遇で,安定した留学を送れたのはいうまでもありませんし,この出会いがなかったら早々に帰国し,私は別の道を歩んでいたでしょう.●留学のきっかけ★医師国家試験に合格した後,数年眼科を学び故郷に帰ろうと考えていた私は,ご縁があって松尾治亘教授が主宰されていた東京医科大学眼科学教室の門を叩きました.入局後,助教授だった臼井正彦先生(現同大学理事長・学長,眼科学教室名誉教授)が始めた眼免疫の研究を臨床の合間に手伝わせていただくことになります.先生がパリ大学時代から続けられてきた実験的自己免疫性ぶどう膜網膜炎やぶどう膜炎の発症機序の研究に興味をあたらしい眼科Vol.31,No.5,20147190910-1810/14/\100/頁/JCOPY覚たからでした.網膜S抗原に関する仕事や眼免疫との出会いです.その後,高野繁先生(現日本眼科医会会長)がパリから教室に持ち帰ったものの,当時用いられていたモルモットに接種しても炎症を眼に惹起しないため手つかずであった,もう一つの網膜の蛋白(A抗原)に関する仕事をテーマに与えられます.その頃NIHでは,生化学的視点からDr.Chaderの下,視細胞間質でretinolと結合しvitaminA代謝にかかわるIRBP(interphotoreceptorretinoid-bindingprotein)に関する研究が精力的になされ注目されていました.免疫学的には望月學先生(東京医科歯科大学名誉教授)とDr.Gery(のちの上司)がこの蛋白をラットに接種してEAUの発症にも成功されていたのです.米国そしてフランスと日本で,それぞれ異なる観点からたどり着いていたIRBPとA抗原という網膜蛋白が同一ではないかという仮説を検証する仕事がご縁で,東京医科大学の諸先生方や東京大学に戻られていた望月先生のお力添えをいただきNEIに留学する機会を私は得ました.●NEIでの学び★「学ぶ」という言葉には,1.勉強する,2.学問をする,3.知識や技を習得する,4.経験し知る,5.まねをする,という複数の意味が含まれるのではないかと思います.答えが用意されていて,正解を点数化される「勉強」は苦手だった私でしたが,NIHに在籍した2年間に,独身の自由さと米国という異文化の中で,加えて日本からの優秀な日本人留学生の先生方に囲まれて眼科学の研究や考え方,医学・生命科学領域における倫理感を教わったように思います.研究面に関しては,答えのない問題をみつけ,仮設をさまざまな方法で検証し正解にたどり着こうとする「学問」の手順を,NIHのエキスパートたちをマネすることで学ばせていただいたように思います.毎週金曜日の朝,Dr.CoganとDr.Kuwabaraの主催するNEIpathologicalconferenceにはDr.Kinoshitaも加わり,多彩なゲスト,例えばWisconsin通りを隔てた海軍病院にあるAFIP(AmericanForcedInstitutePathology)のスタッフやZimmermann先生たちを混じえて熱いdiscussionが繰り広げられ,当時の私にとっては大変に刺激的でした.生活の中ではDr.Kinoshitaは率先してNEIGolfTournamentを春,夏,秋と主催してくださいました.春はARVOの期間に開催され,冬の間ARVOに向け720あたらしい眼科Vol.31,No.5,2014た準備と苦労をねぎらってくださいました.「ゴルフは友達がつくれる」というのが先生の言葉でした.少々脱線しますが,このスピーチと同様の主旨は,故三島濟一東大教授が東京都眼科医会の大学対抗ゴルフ大会のおりに残されています.「勉強だけしていても友達はできないが,ゴルフは友達ができるから続けなさい」というお言葉です.眼科領域の偉大な先人に共通する主旨のお言葉として,若い世代(時代も変わり,若手は余裕がない厳しい時代でしょうが)の先生方に伝言させていただきたいと思います.さまざまな教育を受けたNEIにおいて,Dr.Kinoshitaと多くの言葉を交わしたのは,88年の春から夏にかけて留学の終わろうとする時期でした.ある日,私の机の横に先生が座られ,私の帰国後の勤務先のことや生活のあれこれご心配くださいました.その際,私的な話題に及び,自分はサンフランシスコ郊外で育ったこと.お父様が植木職人で,子供の頃仕事を手伝った思い出を語られました.お母様に関するお話では「Obento」(お弁当)が懐かしいといわれ,「美味しかった」と優しいお顔になられ,つぶやかれたことを個人的なお人柄として印象深く思い出します.●おわりに★人は生を受け,いつかの日か人生を終える時が来るのですが,恩人であるDr.Kinoshitaの訃報に接して,もう二度とお目にかかれない別れを悲しく思います.最後にお目にかかったのは,ARVOがSarasotaからFortLauderdaleに移動して2回目の年,会場に近いマリオットホテルのロビーでした.「カリフォルニアに異動したので遊びに来なさい」とおっしゃってくださったのが最後の言葉でした.生命は現生に別れを告げても魂は永遠と申します.先生の語りや言葉は,今も鮮明に蘇ります.闘病が長かったとうかがっていますが,病と闘われた先生に心からご冥福を祈りたいと思います.先生と私の交わした約束は,NIHで学んだ恩恵を日本の若い人たちに還元することでした.帰国後約25年間の長きにわたり在籍させていただいた大学を辞し,現在は独立しています.小さな診療所の院長に過ぎない私にとって先生とのお約束を振り返ってみると忸怩たる思いがこみ上げててきます.残りの人生を,これからは先生も愛してくださった日本の地域医療のため努力を重ねて参り,少しでもご恩をお返しできればと考えています.合掌(94)