JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ②責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ②責任編集浜松医科大学堀田喜裕研究生活の思い出濱井保名(YasunaHamai)濱井眼科院長1971年弘前大学医学部大学院修了,同眼科助手.1972年留学.1974年帰国.1975年弘前大学医学部眼科講師.1976年山形大学医学部眼科助教授.1991年山形大学退職,濱井眼科開院.1996.2005年日本眼科医会理事.1998.2009年山形県眼科医会会長.1998.2000年山形県アイバンク理事長.2004.2009年東北眼科医会連合会会長.2010年濱井眼科院長,現在に至る.先日,浜松医科大学眼科堀田喜裕教授からJinH.Kinoshita先生を偲んで,先生にお世話になった人々の思い出の記憶を『あたらしい眼科』誌に載せたいという電話をいただいたとき,急に40年前のアメリカ合衆国での生活のことが頭に浮かんできました.楽しかったこと,辛かったことなど一生の思い出として体にしみつきときどき脳裏をかすめます.Dr.DavidG.Cogan(以下,Cogan先生),Dr.JinH.Kinoshita(以下,Kinoshita先生),Dr.ToichiroKuwabara(以下,Kuwabara先生),Dr.HenryN.Fukui(以下,Fukui先生)の各先生方には個人的にも非常にお世話になりました.なかでもKinoshita先生,Kuwabara先生には特別の思い出があります.●JinH.Kinoshita先生との出会い★Kinoshita先生に初めてお会いしたのは,40数年前に東京で生化学の国際学会が開催されたときでした.先生はガラクトース白内障の成因についての研究をなされており,その頃ガラクトースに興味を持たれていたと思います.私は弘前大学の生化学教室の大学院生で眼科は副科目として選択していましたが,生化学が主で血液型物質の型による違いでガラクトースの配列と成分比が異なることなどの研究をしていました.それでガラクトースに関係した研究に目を留めてくださったものと思います.ガラクトースが縁でKinoshita先生の研究室にResearchFellowとして招かれることになりました.それ以来HarvardのHoweLaboratory,NIH(NationalInstitutesofHealth)のNEI(NationalEyeInstitute),また帰国してもKinoshita先生が亡くなられるまで40(105)年以上も長いお付き合いをさせてもらいました.渡米の話は直接Kinoshita先生との話し合いでしたのですぐに決まったのですが,私が大学院を修了していないので,学生では給料が年棒6,000ドル(当時は1ドル300円),大学院を修了してドクターの資格を得れば12,000ドルとのことで修了まで1年間待ってもらうことにしました.この間にアメリカ合衆国ではHoweLaboratoryのメンバーが,NIHに転勤になったり色々なことがあったようです.渡米してまず驚いたことはアメリカ合衆国はとてつもなく広く豊かな国で,この国と戦争をした日本は馬鹿なことをしたものだと思ったのが第一印象でした.ボストンに着いて住居が決まるまで家族はCogan先生の自宅に居候することになり,居候の間,家さがしやアメリカ合衆国での生活に慣れるまでFukui先生にお世話になりました.●所属と仕事が決まるまで★最初に行った先は,HarvardのHoweLaboratoryの生化学部門でした.丁度その頃1970.1972年にかけてNIHにNEIが設立されたすぐの頃で,Kinoshita先生をはじめKuwabara先生など主だったHoweLaboratoryの先生方はNIHに移動してしまった後でした.また,NEIの生化学部門には樺沢泉先生,尾羽澤大先生,三国郁夫先生らが来られていて生化学部門の人員は満杯ということでした.実験室でぶらぶらしているときに,HoweLaboratoryの主任教授のCogan先生に呼ばれ,生化学は定員が一杯だから何かできないかと言われ,このまま日本に帰されたら大変だと思い,電子顕微鏡と組あたらしい眼科Vol.30,No.2,20132390910-1810/13/\100/頁/JCOPY織化学ができることをアピールしてみました.数日後Laboのランチョンタイムのセミナーで組織化学の話をするように言われました.自分にとってはアメリカ合衆国に残れるかどうかの試験のようなものでした.セミナーでは弘前に居た時,日本眼科学会雑誌に発表し,JJOに掲載された(HistologicalStudiesonArteriolarSclerosisintheHumanRetina:TheLocalizationofAcidMucopolySaccharidesinCentralRetinalArteryandOtherArteries.JpnJOphthalmol15:140,1971),網膜血管の酸性ムコ多糖の局在についての組織化学的話をしました.発表の結果は合格でした.病理組織部門で人員が足りないので,Kinoshita先生の生化学部門の一員としてKuwabara先生のところにトレードに出されることが決まり,やっとアメリカ合衆国に留まることができました.その時,Kinoshita先生からHoweLaboratoryのAnnualReportに以下のような紹介をいただき,米国人のDonovanJ.Pihlajaと共にメンバーの一人として迎えてもらうことができました.「Dr.Kawabata’sdepartureleftabiggapintheLaboratory’sfunctionsinexperimentalpathologyandelectronmicroscopy.Fortunately,however,wehavebeenabletosecuretheappointmentofDr.Pihlajaand,mostrecently,ofDr.YasunaHamai,bothofwhombringunusualtalentstothisimportantareaoftheLaboratory’sresearches.Dr.HamaihailsfromJapan,wherehisinterestshaverelatedtohistochemistryandultrastructureoftheeye.」Kinoshita先生は,時々NIHからHoweLaboratoryに来られていました.その時は必ず実験室に寄られ,私の標本を見ていかれます.そして,いつもCogan先生にも見せるようにと,私のことを気づかってくれていました.●研究生活で嬉しかったこと★2年近く住んだボストンを離れ,VisitingScientistの資格でNIHに移ることになり,白内障の研究に熱が入るようになりました.その当時,マウスのような小さい動物の水晶体でも全体を切片にすることは非常に困難でした.Kuwabara先生は何時も「水晶体の標本作りはオリエンテーションをきちんと決めて,小さい切片にしてエポンを十分浸透させることだ」と言っておられまし240あたらしい眼科Vol.30,No.2,2013写真先天性白内障マウス水晶体のエポン切片(トルイジンブルー染色)た.自分なりに色々工夫して,組織をエポンの入った注射器に入れシリンダーで圧力を加え,樹脂が十分浸透するようにしてみました.その結果,水晶体全体の切片を作ることが可能になりました(写真).その時,クワバラ・クワバラと怖れられていたKuwabara先生に「Wholelensの切片が作れるのは僕と君ぐらいのものだ」と誉められたのが何よりの自慢です.また,Kuwabara先生は日本人の研究者に何時でも,「Whydon’tyoucomeup,eattogether!」と昼のランチョンセミナーに3階のミーティングルームに来て食事をしながら話をしろと言って,日本人が外国人と親しくなるように気くばりをしてくれていました.Wholelensの切片はKinoshita先生にも気に入ってもらえて,学会でNIHのPRのポスター・セッションに2回出してもらえました.実験はどんどんはかどりARVOに2回・AAOに1回発表し,Paperは,HamaiY,FukuiHN,KuwabaraT:Morphologyofhereditarymousecataract.ExpEyeRes18:537.1974HamaiY,KuwabaraT:EearycytologicchangesofFrasercataract:Anelectronmicroscopicstudy.InvestOphthalmol14:517.1975に発表することができ,アメリカ合衆国では充実した研究生活を過ごさせてもらいました.改めて,Kinoshita先生に感謝申し上げます.(106)