———————————————————————-Page1あたらしい眼科Vol.23,No.6,2006???0910-1810/06/\100/頁/JCLS本書は,慶應義塾ニューヨーク学院での4日間のワークショップの記録です.中学生,高校生8人を対象にしたワークショップで,池谷裕二さんが一方的に話すのではなく,彼らからの質問に答えたり,ときには彼らに質問をしたりしながら進められています.たまたま私は,ニューヨークへ向かう飛行機のなかでこの本を読み,同乗していた息子と家内にも,この本を薦めました.いつもなら,退屈してしまう時間帯,家族で機内で脳について興奮して議論しました.あまりにもこの本に刺激され,ぜひ池谷先生に会社に来ていただき,講演してもらえないものかと依頼したところ,快く引き受けていただき,5月に直接お話を聞くことができました.言うまでもなく,講演は大好評でした.ともすると,アカデミックな話は退屈と思われがちですが,その1時間半はあっという間でした.脳の話をうかがいながらも,それは実は「自分について知る」とても新鮮な「視点」でもありました.脳を通じて,自分とは何かを知るとてもいい機会になりました.本の中でも触れられていますが,講演を通して学んだことは次のようになります.?脳は世界を勝手に解釈している.私たちはその解釈から逃れられない.人は見たいものを見たいように見,聞きたいことを聞きたいように聞いている.それはよく聞く話ではありましたが,なぜそうなのかを知る機会はこれまでありませんでした.講演は,それはなぜなのかという疑問を,脳の機能を通して知る,またとない機会になりました.?脳は足りない情報を補っている.たとえば視神経は,目から脳に100万の束になって伸びているが,デジカメで考えてみると,100万本というのは決して十分な解析度ではない.つまり,その本数では,本来画像はぼやけてしまうらしいのですが,脳はそれを鮮明な画像に作り変えてしまう.私たちが見ているものは,現実そのものではなく,脳が修正した画像を見ているということなのです.人間の意志についても,これまでは,自分の手を動かそうという意志を働かせるから手が動く,と思われてきました.しかし,脳のなかでは,手を動かそうという意志が働く前に,手を動かすセットアップが終わっていて,その後で手を動かそうという意志が働くのだそうです.そこには明らかに時間差があります.少なくとも脳には意志はなく,あるのは「自由否定」.つまり,身体が手を動かす準備をしていて,私たちができるのは,それをやめるかどうかだというのです.そもそも,自由意志はあるのでしょうか?それに対する大脳のレベルでの答えは,「NO」だといいます.では,人間を動かしているものは何なのでしょうか?それに対するひとつの答えとして,「海馬の揺らぎ」と,池谷先生は答えています.講演では,実際に,脳神経を顕微鏡で拡大したムービーを見せていただきました.それはとても幻想的で,印象的でした.なぜ脳が揺らいでいるのかについては,まだわからないのだとは思いますが,いつの日かそれも明らかにされるのでしょう.そうしたら,「人間とは何か?」,「何のために生きているのか?」,そういうことに対する答えも見つかるのだと思います.さて,本書に記録されているワークショップでは,脳に対してもっているイメージから始まり,《Science》や《Nature》から,ラットを使った実験のいくつかを紹介しながら,脳はどのように研究されているかを説明して(81)シリーズ─66◆伊藤守株式会社コーチ・トゥエンティワン■6月の推薦図書■進化しすぎた脳池谷裕二著(朝日出版社)———————————————————————-Page2???あたらしい眼科Vol.23,No.6,2006いきます.特に子どもたちを驚かせているのは,「ネズミをラジコンにしてしまった」という《Nature》に掲載された論文でした.どうしたらネズミを自由自在に操ることができるかについて紹介されている部分は,読んでいて目が離せなくなります.その実験では,外側から脳を刺激すれば,ラットを自由に操れることがわかってきます.外側からラット,つまり生き物をコントロールすることができるのです.外部からコントロールできるのであれば,一体「自分」とは何なのだろうかという疑問がわいてきます.本書は,読む者は自由に連想させ,どこまでも自由に疑問を発生させ,それを検証していきます.未知の世界,それも,脳という,自分と密接に関係のある,未知の世界に踏み込んでいくのですから,興味はますます喚起されます.ところで,偶然に,池谷先生のこのワークショップに参加した一人の生徒の話を直接聞く機会がありました.彼は池谷先生の話を聞いて,「自分も脳の研究をしたい.だから,医学部か薬学部に行きたい」と言っていました.本書もそうであるように,池谷先生の講義は,知ってみたい,もっと知りたいという気持ちを刺激します.人間の意識とは何かという問いに答えていく過程で「クオリア」という言葉がでてきます.人間の意識の定義のひとつとして,判断できること,表現を選択できること.歩こう,止まろう,呼吸をしよう,止めよう.そうやって,表現を選択できることが「意識」であると.しかし,つねられて痛かったり,きれいなものを見て美しいと思ったりすること.そう感じることを選択することはできません.音楽を聴いて感動する,絵を見て感動する,これらは意識の定義に反している.つまり,表現を選択できないのです.そのような感覚を「覚醒感覚」といいます.それは,意識できるものではなく,無意識に生じているものです.うれしい,楽しい.そしてリンゴを食べて,すっぱいと感じること.そういう生々しい感覚のことを「クオリア」というのです.『「クオリア」とは多分ラテン語で「質」という意味だと思うんだけど,英語では「quality」の語源になっている.ここでいう「質」というのは,物質の<質>という意味ではなくて,モノの本質に存在するような質感の<質>.実体ではない<質>.美しいとか悲しいとか,おいしいとかまずいとか,そういうのをひっくるめて「クオリア」と言おう.』(本文より)「知性は理性」であり,論理的であることが何か優位性をもっているかのように思われてきましたが,実は脳には,やはり感受性や情緒というものがあり,単に論理的であるだけではなく,豊かな感受性が備わって初めて,知性をもったことになるのだと思います.本書とは直接関係ないのですが,池谷先生と食事をしながら,味覚の話になりました.これまで,舌は味覚として甘み,苦味,辛味,酸味などを感じるが,「うまみ」を感じることなどないとされてきました.ところが,ヒトゲノム計画が終わる過程で,実は舌には「うまみ」を感じる神経があることがわかったのだそうです.それ以来「umami」という日本語が,そのまま英語として使われるようになりました.しかし,アメリカ人の舌には,その神経がとても少ない.ある意味,彼らの味覚は劣っているのかもしれません.すし屋で,醤油をじゃぶじゃぶ使ったり,ワサビを山のように醤油に溶かして食べたりするのは,日本食の食べ方を知らないからだと思っていましたが,実はそうではなかったのでしょう.言ってしまえば,味覚が鈍感なのです.だから,甘いものを際限なく食べてしまうことができるのかもしれません.日本人の食生活も大きく変わってきていますが,もしその影響で日本人が味覚を失うことがあるとすれば,それはとても残念なことです.同じように,豊かな感受性を失ってゆくのも残念です.本書は脳をとても身近なものにしてくれます.同時に自分を身近なものにしてくれた一冊でもありました.(82)☆☆☆