監修=坂本泰二◆シリーズ第165回◆眼科医のための先端医療山下英俊涙液のリピドミクス山田昌和(杏林大学医学部眼科学教室)涙液油層の重要性ドライアイが眼表面疾患を包括する広い概念に成長するにつれ,涙液油層の重要性が再認識されてきているようです.ドライアイをサブタイプに分けた場合に,涙液減少型ドライアイよりもマイボーム腺機能不全がずっと頻度が高いことも報告されています.油層は涙液の最表面に位置する50~100nm程度の薄い膜に過ぎませんが,涙液の表面張力を下げ,涙液の蒸発を抑制することで涙液膜の安定性に寄与すると考えられています1).しかし,涙液の脂質に関してはよくわかっていないことが多いのです.採取できる涙液検体が微量であること,微量の脂質を分析する技術が十分でなかったことが関係しています.従来の脂質分析は薄層クロマトグラフィやガスクロマトグラフィ,高速液体クロマトグラフィ(highperformanceliquidchromatography:HPLC)によって行われており,分析可能な脂質クラス,検出感度にそれぞれ限界があり,分子種の同定は困難でした.また,涙液そのものではなくマイボーム腺分泌物を検体として分析を行った報告が多く,論文を読む際には検体の種類に注意を払う必要があります.最近になって質量分析計(massspectrometry),とくにHPLCと質量分析計を組み合わせた方法(HPLC-MS)による涙液脂質分析の研究が進んでいます2,3).HPLCMSは感度が高く,脂質のクラスだけでなく分子種まで同定できる点に特長があり,定量分析も可能です.新しいテクノロジーによって,涙液脂質に関するこれまでの常識は大きく変わりつつあります.涙液油層の成り立ち涙液膜の3層構造モデルがWolffによって提唱されたのは,今から60年ほど前のことです.このモデルは基本的には現在でも通用する卓越したモデルなのですが,(99)涙液膜の油層に関して多少の修正が提唱されています.それは,涙液油層をさらに表面側の非極性脂質の層と水層に接する極性脂質の2つに分ける構造モデルです1,2).極性,非極性の違いは水に対する溶解度,親和性に由来し,水に溶けにくい非極性脂質が最表面に位置し,水と親和性がある極性脂質が非極性脂質と涙液水層の間を取りもつように働くというモデルになっています.これは概念的なモデルと考えられていましたが,微小角入射X線回折,分子占有面積と表面張力の関係などの物理化学的解析手法によって,涙液油層は実際に2層構造であり,非極性脂質が表面(大気側)に位置することが最近報告されています.涙液脂質とマイボーム腺分泌物涙液中の脂質はマイボーム腺に由来するというのが従来の通説でした.しかし,Nagyovaら4)は,涙液脂質とマイボーム腺分泌物をガス液体クロマトグラフィで分析し,両者のプロファイルが異なることを示しています.この報告は定性的なものでしたが,その後にHPLC-MSを用いた詳細な分析がなされるようになり,両者の差異が明らかになってきています.この領域の研究論文は化学構造式や質量分析スペクトルが数多く出てきて理解しにくいのですが,これまでの分析結果の概要は以下のようにまとめることができます.マイボーム腺分泌物に含まれる脂質の特徴は以下のようになります2,3).1)疎水性の複合脂質であるコレステロールエステルとワックスエステルが主成分であり,両者で全体の70~90%を占め,トリアシルグリセリドが4~5%で続く.分泌物の粘張性,融点は,これらの複合脂質を構成する脂肪酸の長さと2重結合数に依存する.2)特殊な脂肪酸である(O-acyl)-omega-hydroxyfattyacid(OAHFA)が存在する.OAHFAは炭素数が28~34ときわめて長い脂肪酸を構造中に含むが,水酸基を多く有するため親水性に富む.Butovichは涙液油層の極性脂質の主成分としてOAHFAを想定しています2,3).3)従来,涙液油層の極性脂質の主成分と想定されていたフォスファチジルコリン(PC)などのリン脂質はほとんど検出されない.マイボーム腺分泌物と涙液中の脂質を比較した場合,あたらしい眼科Vol.31,No.9,201413470910-1810/14/\100/頁/JCOPY涙液脂質の特徴として,コレステロールエステルでは炭素数が少ない脂肪酸が多く含まれていること,遊離コレステロールが多いことなどが知られています.しかし,両者の最大の違いは,涙液中の脂質にはPCを主とするリン脂質が含まれていることです5).なお,正常者とマイボーム腺機能不全患者のマイボーム腺分泌物を比較した報告では,脂質のクラス分析では両者に差異がみられないが,複合脂質を形成する脂肪酸の種類(炭素数や二重結合数で規定される)まで含めると,いくつかの差異がみられるようです6).涙液脂質はマイボーム腺だけでなく涙腺からも供給される涙液脂質とマイボーム腺分泌物の相違を説明するためには,涙液脂質の由来としてマイボーム腺だけでなく,涙腺を考える必要が出てきます.涙腺からはいくつかの涙液特異的蛋白が分泌されますが,このひとつにリポカリンがあります.リポカリンは乳汁や唾液にもみられる分子量約20kDの蛋白で,幅広い脂質結合能を有しています.リポカリンが脂質を結合した形で涙腺から分泌されるという報告もあり,リン脂質もリポカリンによって涙腺から運搬されている可能性が高いようです.また,涙液中にはphospholipidtransferprotein(PLTP)というリン脂質と特異的に結合する血漿由来蛋白が存在することも報告されており,PLTPが涙腺からのリン脂質供給に関与している可能性もあります.涙液油層の非極性脂質の層を形成するのはコレステロールエステルとワックスエステルであることは多くの研究者が支持しています.しかし,極性脂質の層については,OAHFAとする研究者とリン脂質とする研究者がいて,意見の一致をみていません.以上,概説してきたように,涙液油層にはわかっていないことが数多く残されています.脂質成分だけでなく,涙液油層の由来,分泌機序,涙液中の脂質分解酵素の役割,脂質の排泄・交換メカニズムなど列挙すればきりがありません.涙液の脂質研究が今後,さらに発展していくことが望まれます.地道な研究から,ドライアイのバイオマーカーとなる脂質分子が同定され,新しい治療薬・治療法の開発に繋がることが究極の目標になりそうです.文献1)BronAJ,TiffanyJM,GouveiaSMetal:Functionalaspectsofthetearfilmlipidlayer.ExpEyeRes78:347360,20042)ButovichIA:Lipidomicsofhumanmeibomianglandsecretions:chemistry,biophysics,andphysiologicalroleofmeibomianlipids.ProgLipidRes50:278-301,20113)ButovichIA:Tearfilmlipids.ExpEyeRes117:4-27,20134)NagyovaB,TiffanyJM:Componentsresponsibleforthesurfacetensionofhumantears.CurrEyeRes19:4-11,19995)DeanAW,GasgowBJ:Massspectrometricidentificationofphospholipidsinhumantearsandtearlipocalin.InvestOphthalmolVisSci53:1773-1782,20126)LamSM,TongL,YongSSetal:MeibumlipidcompositioninAsianswithdryeyedisease.PLoSOne6:e24339,2011■「涙液のリピドミクス」を読んで■今回は山田昌和先生による極めて興味深い涙液研究山田先生の解説で興味深いのは,物質の微量分析ののトピックスです.涙液の安定が障害されるドライア手法がHPLC-MSの導入により臨床にも有意義なデーイの病態と新しい治療ターゲットを探索するために涙タが利用できることになったことです.これまで眼科液の脂質を詳細に分析することで多くの発見があった領域で得られる臨床サンプルは量が限られており,詳ことが詳しく解説されています.私のようにドライア細な分析は極めて困難でしたが,今後の分析の方法がイを専門としていない眼科医にとって,患者さんの主進歩することによりきちんとしたデータが提示できる訴をきちんと科学的,論理的に分析してエビデンスをことで眼科の種々の領域の病態研究が進歩すると考えもって適切な治療薬の選択,治療法の選択を行うことられます.このような分析により,涙液脂質とマイは大変困難です.涙液の脂質の成分分析によりかなりボーム腺分泌物は異なること,前者には涙腺からも供合理的にドライアイの治療が可能になる可能性が示さ給されることなど,これまでの我々のもっている涙液れており,本当に大切な研究であると認識しました.の概念が大きく変わることがわかりやすく示されてい1348あたらしい眼科Vol.31,No.9,2014(100)ます.新しい研究手法の進歩により眼の生理学的,病学者が利用できるような研究環境が整備され大発展し理学的な従来の仮設が大きく変化する可能性がありまました.しかし,脂質の微量分析という分野は研究のす.今回,山田先生の示された物質の分析は,20世難しさから発展には大きな障壁があったともいえま紀の遺伝子から蛋白質への分子生物学の研究の流れとす.今後は新しい研究手法が臨床の現場で活用されるは違った生命科学研究の流れの重要性を示しているとことにより新しい疾患概念が提示され,疾患治療開発考えられます.遺伝子を中心とした分子生物学の研究に役立つことをこころから願っております.手法はPCR,核酸の配列の解析により多くの生命科山形大学医学部眼科山下英俊☆☆☆(101)あたらしい眼科Vol.31,No.9,20141349