JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑫責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑫責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生有り難うございました矢島保道(YasumichiYajima)矢島眼科医院1971年順天堂大学医学部卒業.眼科入局.1972年同大学眼科助手.1978年ソ連フェドロフ研究所留学.1979年NEIVisitingScientist.1982年防衛医科大学校講師.1983年同大学校助教授.1989年矢島眼科医院開院.院長.現在に至る.集合写真は(写真1),1981年6月17日のNEIに勤務していたほぼ全員です.桑原登一郎先生から記念として頂戴いたしました.この写真を撮影した少し前の1年9カ月間は,Jinさんとは研究室も違いましたので「おはようございます」「今日は」「さようなら」の挨拶以外に言葉を交わした記憶がありません.しかし,この年のARVOの最終日頃だったと思います.偶然にお会いしたJinさんが私の発表した研究を褒めてくださいました.このときを境に少しずつお会いする機会が増えて行きましたので,まずJinさんと話をするきっかけとなったNIHでの研究の話から始めて行きたいと思います.1979年8月15日,アメリカに着いた私達家族を前任者の田中稔先生(本シリーズ⑧)が迎えてくださいました.早速うかがった桑原先生に今後の仕事について相談をすると,幼若マウスの水晶体組織を研究しなさいという.ところが始めてみるとこの幼若マウスの水晶体は大変な曲者で,電子顕微鏡で見ると皮質の部分はどのような固定条件でも組織像に大差はないのですが,核部分は写真2A,Bのように全く異なった電顕像が得られてしまうのです.桑原先生との間には研究の進捗状況を1カ月に1度は報告するとの取り決めがありました.初めての報告でこの核部の電顕像の差異について説明すると,そうだろうというお顔でまあ頑張りなさいという.それが2カ月,3カ月になるとまだそんなところで停まっているのかというお顔になってしまい,さらに6カ月も過ぎた頃には,君ね!もう止めなさい!10年経ったって1編の論文も書けやしないよ,とおっしゃる.そして10カ月も経った頃にはお会いしてもくれなくなってしまいました.ところが私自身はこのartifactsを解(77)決しない限りにはもう先には進めないと思うようになっておりました.それまでただ漫然と同じことばかりを繰り返していたのではありません.固定液の種類,濃度,温度,pH,固定時間などの固定条件を変えて,またマウスの日齢の違いによる組み合わせも調べていました.これらすべてを包理,切片作製,光学顕微鏡,電子顕微鏡で調べて行くのは膨大な時間を要したものです.このような固定条件の違いによる組織像の違いはどこからくるのでしょうか.それは水晶体蛋白質のクリスタリン粒子が水晶体線維内を移動するからです.低温で固定すれば写真2Aのように水晶体線維内にクリスタリン粒子は球状の集合体を作り,結果として寒冷白内障の組織像を見ることになります.暖かい温度で固定すれば,固定液の浸透してくる方向にクリスタリン粒子が引き寄写真11981年6月17日のNEIのメンバー前列左,桑原先生,左より6番目,Kinoshita先生,2列目左より5番目,石川先生,3列目左より3番目,筆者.あたらしい眼科Vol.30,No.12,201317250910-1810/13/\100/頁/JCOPY写真2A:幼若マウス水晶体核部電子顕微鏡写真,低温固定.B:暖かい温度固定.C:還元型グルタチオン使用の固定.せられて,写真2Bのような電顕像を作ってしまいます.この現象は何だろう.図書館にこもり論文を読みあさって見つけたのが温度の変化により蛋白質が集合,離散をするprotein-waterphaseseparation現象でした.では固定時に水晶体線維内のクリスタリン粒子を動かなくするにはどうしたら良いのだろうか.考えついたのが暖かい温度で幼若マウス水晶体をアミノ酸に浸しながら固定するという方法でした.アミノ酸は同じ時期に桑原先生のところで「アミノ酸と網膜の関係」を研究していた九州大学の石川裕二郎先生から分けてもらいました.しかし,決定的な組織像が得られません.そこに閃いたのがグルタチオンでした.しかし,グルタチオンは水晶体wholelensの水晶体.を透過ができず,やむなく水晶体を半切して,還元型グルタチオンに浸して得られた幼若マウス水晶体核部の電子顕微鏡像が写真2Cです(InvestOphthalmol24:1311,1983,あたらしい眼科4:1551,1987).早速桑原先生に電顕写真を見ていただ1726あたらしい眼科Vol.30,No.12,2013くと,本当か?本当か?と半信半疑のご様子でARVOの応募に許可をくださいました.そして,これがJinさんの目に留まったのでした.1981年の夏頃だったと思います.Jinさんの部屋に呼ばれました.PaulRussell博士と組んで網膜芽細胞腫の腫瘍細胞を使って,免疫組織化学的にアルドース還元酵素(AR)の局在を調べて欲しいと依頼されました.それがほぼ終わりかけてきた頃に赤木好男先生(本シリーズ⑥)が赴任されてまいりました.何度かJinさんにお会いしていると,さらにPeterKador博士とのARの共同研究を勧められました.さらなる免疫組織化学的研究については何かとご助言をいただいておりました赤木先生も仲間に加えてくださるようにJinさんに頼み込みました.そんな1981年も暮れる頃に母校の順天堂大学から帰国の打診が入ってきたのです.そして慌ただしい帰国前のNEIで,幼若マウス水晶体の固定方法とARの免疫組織化学についての「さよなら講演」をする機会が与えられました.その講演後にJinさんから幼若マウス水晶体の固定方法の論文の投稿について尋ねられました.NEIにいるうちには投稿はできないだろうとお話しすると,桑原先生との間で話がついたから,日本に帰国してから投稿しなさいとのご許可をくださいました.JinH.Kinoshita先生有り難うございました.論文のアメリカでの投稿には時間的な制約もありましたが,桑原先生としても日本からの眼科医が水晶体形態学の難問を解いてしまったかたちで,詳細な検証をしなければ投稿に許可を与えることはできなかったと思っています.帰国のご挨拶に桑原先生にお会いすると,いつの間に用意してくださったのかNIHのdirectorを筆頭に4名のサインのある留学証明書を手渡してくださいました.そして君は実験を繰り返して行い,手順が完全に決まったら,最後に他人に同じ実験をしてもらいなさいとの忠告も頂戴しました.1982年1月27日に帰国しました.その後Jinさんからは毎年の交換クリスマスカードとアメリカの美しい風景写真のカレンダーが送られてきました.あるとき奥様からJinさんが歩行ができなくなったと悲痛な文面のご連絡をいただき,慌ててご返書いたしましたが,詳細がわからないままに訃報に接することになりました.NEIの時代は良い思い出として残っております.これも偏にJinさんとの出会いがあったからだと思っています.(78)