JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑪責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑪責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生のやさしさとNEIでの思い出山田孝彦(TakahikoYamada)山田孝彦眼科院長1981年東北大学医学部卒業.東北大学医学部眼科医員.1984年東北大学医学部病理部医員.1985年東北大学医学部眼科医員.1986年東北大学医学部眼科助手.1988年東北大学より医学博士学位取得.1988年.1990年NIH(NEI)Visitingassociate.1991年東北大学医学部眼科助手.1994年東北大学医学部附属病院眼科講師.1996年NTT東日本東北病院眼科部長.1997年山田孝彦眼科を開設,院長として現在に至る.私は東北大学眼科学教室の助手時代に,玉井信教授のご高配により,1988年11月から1990年10月までの2年間,米国国立衛生研究所(NationalInstitutesofHealth:NIH)の国立眼研究所(NationalEyeInstitute:NEI)で客員研究員(Visitingassociate)として研究生活を送らせていただきました.その陰には,NEIのScientificDirectorであるJinH.Kinoshita先生(Jin先生)のご助力があったことは間違いなく,今でも感謝申し上げております.Jin先生は,偉大な科学者,研究者であるとともに我々日本人研究者に多くのチャンスを与えてくださった,日本の眼科研究にとっての恩人だと思います.私にとってのJin先生の印象はやさしさです.私はJin先生がNIHを退職される1年前にNIHでの研究をスタートしましたので,研究者としてのJin先生はあまりわかりませんが,ScientificDirectorとしてのJin先生とのエピソードと当時の研究を紹介させていただきます.●Jin先生とのエピソード★私がJin先生を知ったのは,宮城県眼科医会で講演してくださったときでした.当時は,その後NIHでJin先生にお世話になるとは思ってもみませんでした.Jin先生との最初の接点は手紙でした.渡米するための手続きやIAP66というビザ取得のために何度か手紙のやり取りがありましたが,あるときJin先生の秘書さんから重要な手紙が届いていなのでビザ取得が間に合わないかもしれないとの連絡があり,急いで再送して何とか間に合いました.郵便のトラブルが原因でしたが,Jin先生にお会いしたときには全くそのことには触れられず,が(95)んばれと励ましてくださいました.私が研究をスタートして6カ月ほど経った1989年の5月ころ,Jin先生が突然私の研究室に現れて,ドクター・ヤマダは日本へ行きたいかとたずねるのです.私はまだ研究が始まって間もないので,いいえと答えました.すると何度も同じ質問をされるので,私も本音が出て,正直にいえば行きたいと答えました.そのときは,それで会話は終わってJin先生は部屋を出て行かれました.しばらくして,上司のDr.PaulRussell(Paul)から,その年の11月に日本の金沢市で開催されるUSJapanCCRGmeetingに演題を出して参加するようにと告げられました.Jin先生は私には研究のことは何も尋ねず,ただ私たちが日本へ一時帰国できるチャンスを作ってくれたのでした.金沢では,2種類の蛍光色素を用いた酵素抗体法で培養細胞でのCrystallinとAR(Aldosereductase)の発現を示したポスターを発表しました.二重染色のきれいな写真が撮れたのでJin先生も喜んでくださいました.NEIのScientificDirectorであるJin先生は私から見れば雲の上の方で,話すのも恐れ多いと思っていました.しかし,FarewellpartyやChristmaspartyなどのNEIの主な行事には必ずご夫妻で参加され,我々若手(当時)の研究者とも気さくに話をしてくださいました(写真1).NIHでは,上下のポジションに関係なくお互いをファーストネームかニックネームで呼び合っていました.Jin先生のこともみんなJinと呼んでいました.しかし,私はJinとは呼べませんでした.ドクター・キノシタと呼んでいたのです.するとJin先生も私のことをドクター・ヤマダと呼ぶようになってしまいました.あたらしい眼科Vol.30,No.11,201315870910-1810/13/\100/頁/JCOPY写真1Bethesda市で開かれたNEIのパーティーにて撮影左より,Jin先生のKay奥様,Jin先生,CarlKupfer先生(NEIのDirector),筆者.相手のことをとても気遣う先生でした.パーティーで思い出すのは,Jin先生のFarewellpartyのことです.NIHの向かいのベセスダ海軍病院のレストランで行われたのですが,ボヤ騒ぎで煙が出てきたため送別会は途中で中止になってしましました.しかし,NEIの人たちは,かえって忘れられない会になったからいいんじゃないと笑い飛ばしていました.Jin先生を気遣ってのことと思います.●NEIでの研究生活★私は妻と当時2歳の長女の3人で渡米し,メリーランド州Rockville市のVillagesquareというマンションに住みました.当時のVillagesquareには佐藤佐内先生(当時山形大学眼科),堀田喜裕先生(現浜松医科大学眼科学教授)が住んでいらして,現地の情報などを丁寧に教えていただきました.村上晶先生(現順天堂大学眼科学教授)は私と同じ頃にVillagesquareに来られて仲良くしていただきました.また,Paulの研究室の向かいのDebbieCarperの研究室におられた金子昌幸先生(当時長崎大学眼科)にもお世話になりました.私が配属されたのはNEIのLMOD(LaboratoryforMechanismofOcularDisease,写真2参照)のPaulの研究室でした.研究内容はtransgenicmouseの水晶体上皮から確立したa-TN4という培養細胞を用いて,a-crystallin,b-crystallin,ARなどの発現をさまざまな環境のもとで調べるというものでした.方法としては,生化学,組織化学,分子生物学,組織培養のテク1588あたらしい眼科Vol.30,No.11,2013写真2NIHからいただいたCertificate私の送別会のときにいただいた大変思い出深いもので,私がcollaborativeresearchに参加させていただいたことの証しです.ニックを駆使することになりました.私は東北大学の第一病理学教室在籍中に病理学,組織化学,超微形態学(電子顕微鏡)を用いて人体および実験動物から得たサンプルを解析する仕事に携わりました.また,眼科学教室に戻ってからは,ライソゾーム酵素であるcathepsinDを牛眼から精製し,家兎を用いて抗体を作り,その抗体を用いた免疫組織化学的手法でcathepsinDの眼内局在を解析し学位を取得しました.これらの仕事で取得したテクニックのおかげで,NIHに赴任してからは早期に仕事を進めることができ,Paulからは主に組織培養と分子生物学を学びました.また,PaulをはじめNIHの研究者から学んだことはテクニックだけではなく,研究開始の着眼点やプロジェクトの立て方など多岐にわたります.さらにNIHの組織の作り方,教育システム,国家との密接な関係など日本が学ぶべきことがたくさんあると思いました.これから海外での研究を志される若い方々には,是非このような観点で勉強し,得られた成果を日本に持ち帰ってほしいと思います.また,売りになる研究テクニックを,ひとつでもいいので身に着けてから留学したほうが何かとうまくいくと思います.最後に,私にNIHで研究する機会を与えてくださった玉井信東北大学名誉教授とJin先生に改めて感謝申し上げます.(96)