JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑧責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑧責任編集浜松医科大学堀田喜裕Jin先生,Kuwabara先生,そして中島章先生田中稔(MinoruTanaka)田中稔眼科院長1971年順天堂大学卒業.1976年東京大学医科学研究所.1977年米国NEI留学.1979年順天堂大学眼科講師.1983年順天堂大学眼科助教授.1997年順天堂大学浦安病院教授.2006年順天堂大学浦安病院副院長.2011年田中稔眼科院長.現在に至る.順天堂大学医学部客員教授,日本眼科学会評議員,千葉県眼科医会顧問.このたび,浜松医科大学堀田喜裕先生から「日米眼研究の架け橋─JinH.Kinoshita先生を偲んで」と題して若い先生方に留学の楽しみを語る機会が与えられました.Jin先生との思い出は沢山ありますがそれをとおして自分が経験して来たことをお伝へし,一人でも多くの若い眼科医が留学を経験し,日本の眼科のリーダーの一人として成長し,さらに後進につなげていけるならば望外の喜びと感じ,この企画の素晴らしさに感銘し筆をとりました.私は高校の頃からの留学の夢を叶えるためには,日本でも評価が高く世界的にも有名な教授がいる教室に入ろうと思い,中島章教授の眼科に入局しました.中島教授は私の留学希望を受け入れてくださり何度も何度もJin先生やKuwabara先生に手紙を書いてくださりました.心のこもった長いrecommendationletterを拝見したときは本当に眼科に入局して良かったと思いました.国内外問わず留学の機会は本当に指導者次第で,そしてそれをサポートしてくれる医局にいてはじめて実行できるものです.留学が数年先になりました.どんな特殊技術をもって,何を目的に留学するのか考えるようになりました.電顕オートラジオグラフィの技術が要求されました.加えて当時最先端であったフリーズフラクチャー装置(FF)を買ってくれるとのことで,私の不安は解消しました.当時これら2つの技術を駆使し世界中に発表しつづけていたのが,浜清教授・広沢一成助教授のいた東京大学医科学研究所微細形態研究部でした.このときも早速中島教授が同行してくださり,1年間の在籍を許可されました.中島先生のお顔の広さ・行動力・医局員を想うお気持ちに,このときも感激しました.早速臨床を(89)0910-1810/13/\100/頁/JCOPYフリーにしていただき,フルタイムで医科研で連日,心のこもった指導を受けることができ,だいたいの技術は身につけ,あとは眼科領域で何をするか考えはじめていました.この領域でも世界に通用する施設で学んでいけたことが本当に幸いでした.私が一人臨床から抜け超多忙の医局の先生方に大変ご迷惑をおかけしました.もし帰国したら医局のため,沢山頑張ろうとそのときから思っていました.そして,もし教授にでもなれたら中島先生のような指導者になりたいと思いました.さて卒業して6年目,羽田からワシントンに向けて出発しました.旅費は家族の分もアメリカ政府で出してくれました.貯金もあまりなく不安でしたが心が躍っていました.ロスで1泊し真冬のワシントンに到着しました.前任の舩橋先生が迎えに来てくださり,その夜は先生宅に1泊しました.本当にお世話になりました.翌日早速NIHに行きました.広大な敷地に沢山の研究所が立ち並び私のいく所はNationalEyeInstitute(NEI)です.まず直接のボスであるKuwabara先生に会い,ひきつづき研究所の責任者のJin先生に会いました.Jin先生はとても優しい先生に見えました.「Kuwabara先生はとてもきびしい先生だが困ったことがあったらいつでも相談にのるよ」といってくださいましたが「眼光は鋭い」が第一印象でした.NEIのDirectorは,Dr.CarlKupferですが,この先生にも中島先生から私のことをよろしくとの手紙が届いており,しっかり成果を出さないと中島先生や医局に申し訳ないと思ったものです.日本とは全く異なる国をあげての研究機関であることを目のあたりにしました.NEIでも研究費の制限はなくやりたい研究は何でもできました.まずスタートしたのが電顕オートラジオグラフィを用いての角膜創傷治癒,視あたらしい眼科Vol.30,No.8,20131133細胞外節の研究,水晶体のFF,角膜上皮のFFなど,すべてがこの技術を用いての研究が眼科領域ではありませんでしたので,どんどん結果がでました.留学して間もない頃,ちょうど硝子体の開祖のDr.Machermerが硝子体手術を始められた頃で,Kuwabara先生から硝子体手術の安全性を確認しろといわれ,VISCXを買って猿で実験したことが思い出されます.その頃は日本ではもちろんこの手術は行われておらず,この手術については疑心暗鬼でした.まさか将来自分が硝子体術者になるとも思ってもみませんでした.毎日が夢のように,矢のように過ぎ去りました.教科書や論文でしか知らなかった有名な先生方,また日本では近づきがたい偉い先生方にお会いしたり,お世話したり,留学のもう一つの収穫は尊敬する先生方との一期一会でした.眼科研究の世界一の学会がARVOです.今は開催地は変更になりましたが当時はフロリダの海に面しているサラソタで行われていました.家族でレンタカーを借り,はじめてフロリダの海を見たとき,そして海に面したキッチン付きのモーテルに泊まり,夕方は日本からのそして世界からの眼科医や研究者とバーベキューをしたり,ゴルフ・釣・クルージングを楽しみ知り合いになれたことも留学の収穫の一つです.学会期間中,Jin先生が先頭になってNEIの同窓,現役で集まる食事会はとても楽しいものでした.この大軍団から尊敬されているJin先生のカリスマ性,優しさを実感しました.私の直属の上司のKuwabara先生はハーバード大学から,Dr.CoganやJin先生とNEIに来られた方で「とてもこわい先生」との評判でしたが,Kuwabara先生は戦後間もなく一人でボストンに留学され大変苦労されました.この間沢山の日本人研究者も指導された偉大な日本人と思います.多くの人たちから「大変厳しい人」と思われていたのは,先生がこれまで大変苦労して来られた思いから,甘い考えで「2.3年行こうか」といって留学してくる日本人たちに行動で忠告されていたのだと思います.先生はNEIを離れ,インディアナ大学に移られ,そこで壮大な人生を終られました.Jin先生と共に日米眼科研究の架け橋であられた偉大な先生でした.ありがとうございました.充実した留学生活であると自分は思っていましたが,私はJin先生やKuwabara先生やlaboに対して何の役に立っているのだろうと自問自答の毎日になって来ました.ある日突然,帰国せよとの手紙が来ました.できればずっとアメリカにいたいと思っていましたので悩みました.しかし,これまで多大のお世話になり,ご迷惑をおかけして来た中島先生や医局に恩返しをすべき義務,そして留学の意義を考えつつ泣く泣く帰って来ました.帰国して4年余り医局長をしました.昭和58年順天堂大学浦安病院が開設され,そこの責任者として赴任し平成23年の退官まで,いつも医局のためと思いつつ臨床に没頭しました.浦安での30年間に約80名の学内外の眼科医たちと学び硝子体手術教育をライフワークとしたつもりです.中島先生にはじまり,これまで沢山の先生方のお世話になり留学が叶ったこと,学んだことを後進に伝えることが任務と思い教育に多くの時間を用いて来ました.今も共に学んだ若い先生方との交流は宝物です.留学は計り知れない魅力があります.どうか皆さん留学してください.そのためには,留学への熱い想いを貫くこと.良い師に出会うこと.人のもたない技術をもって行くこと.送り出してくれた医局などに常に感謝することで実現できます.留学して日本のリーダーの一人になってください.Jin先生,Kuwabara先生の日本の架け橋としての存在はとても大きいものですが,中島先生は順天堂の私たちだけでなく,他学の先生方にも沢山その道を開いてくれました.Jin先生を偲ぶ,この稚拙な文章をとおして,中島先生が最も大きい日本側の架け橋の一人であったことも忘れないでいたいと思います.ありがとううございました.1134あたらしい眼科Vol.30,No.8,2013(90)