JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑥責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ⑥責任編集浜松医科大学堀田喜裕私の恩師であったJin先生を偲ぶ赤木好男(YoshioAkagi)福井大学名誉教授1972年京都府立医科大学卒業・同大学眼科研修医.1974年同大学大学院入学.1979年同大学眼科助手.1981年留学.1984年同大学眼科講師.1986年再留学.1990年同大学眼科助教授.1993年福井大学眼科教授.2007年日本白内障学会理事長.2011年福井大学名誉教授.現在に至る.私は,1972年(昭和47年)に京都府立医科大学を卒業した.眼科研修医時代に,緑内障線維柱帯切除術で摘出された組織片を光学顕微鏡で観察することを経験した.そのことがきっかけで,さらに本格的な基礎的研究に興味を持った.そこで,2年間の研修医終了後,当時,神経解剖学で大きな業績のあった第一解剖学教室の大学院に入学した.4年間の大学院時代では佐野豊先生に師事した.大学院を終えるころ,米国に留学したい気持ちが徐々に沸き上がってきた.大学院卒業後,再び眼科学教室に戻ったが,この留学の夢を叶えてくれたのが,当時の眼科学教授,糸井素一先生であった.糸井先生のお陰で,1981年9月から,米国国立眼研究所(NationalEyeInstitute:NEI)の桑原登一郎(ToichiroKuwabara:TK)先生の研究室に留学した.出発1カ月前,8月16日の当直の折,病棟から長年の夢が叶った喜びをかみしめ,留学できる夢を膨らませながら,大文字の送り火を見たことは昨日のことのように覚えている.渡米はNewYorkのJohnF.Kennedy空港を経由して,WashingtonDCのNational空港に家族と共に夜9時頃到着した.TK研究室の前任者であり,順天堂大学から留学していた矢島保道先生には,空港まで迎えに来ていただき,その後の米国生活のセットアップに随分助けていただいた.さて,TK研究室で与えられた研究テーマは,隅角の線維柱帯,シュレム管,集合管,房水静脈などの房水流出路を一望できる切片の作製であった.無論,重要なことだとは思ったが,さっぱり興味がわかなかった.仕方がなく,余った時間で,角膜神経の再生過程を電子顕微鏡で観察する仕事をしていた.それを知ったTK先生からは度々叱責された.さらに,他の研究室ま(91)たは日本からTK研究室を訪問してきた日本人研究者にはいつも大変にこやかに対応されていたのに反し,私に向ける視線はいつも厳しいものだった.内弟子はきっちり育てようと考えておられたのか,もしくは何らかの理由で私は嫌われていたのかも知れないが,その落差は私にとって大変辛いものだった.期待に胸を膨らませて留学したのであるが,留学後2,3カ月で「もう帰国したい」といつも考える憂鬱な日々を過ごした.さて,矢島先生は主たる研究以外,同じNEIのPeterKador博士との共同研究でアルドース還元酵素(aldosereductase:AR)の眼における免疫組織化学的研究を行っていた.矢島先生が,その研究を未完成のまま帰国されることとなり,私はその継続をPeterに申し出た.Jin先生がNEI研究部門のトップであることはそのとき初めて知った.Peterの仲介で,私はビル10のJin先生の部屋に呼ばれ,研究室移動の意思を先生から直接再確認された.その年のARVO開けの日に移動日が決まった.その日から私はAR研究を正式に始めた.帰国を毎日考え鬱々とした日々から,急に新しい道が目の前に開けた感じであった.私の研究室移動を決定していただいたJin先生,仲介してくれたPeterはその意味で私の一生の恩人である.NEIではその後,私は3年間にわたりAR研究に従事した.帰国後もARを中心とした研究を続け,Peterとは30年にわたり研究面および個人的交友がある.かくしてAR研究が私のライフワークとなった.当時の米国留学生活が私の人生で最も楽しい時代だったと今でも感じている.当時FMラジオで聞いていた曲は私のiPodに数百曲入っており今でも懐かしく聞いている.あたらしい眼科Vol.30,No.6,20138130910-1810/13/\100/頁/JCOPY写真1Jin先生1990年頃,来日され,学会で講演された.写真21995年頃のハワイで行われた日米水晶体会議懇親会Jin先生(前列右)Reddy先生(前列左),後(,)列はPeter(左)と筆者.NEIには臨床と基礎部門があった.研究部門では水晶体研究室以外,ぶどう膜炎,分子生物学など多くの研究室があった.Jin先生の主力研究であったAR研究室はPeterが室長の一つだけであった.Jin先生の時代には日本から数十名に及ぶ研究者が,NEIでさまざまな研究に従事してきた.そして,日本へ帰国後多くの研究者が研究を継続した.このことから,Jin先生が日系米国人として,日本人研究者を通して日本の眼科研究の発展に多大な功績があったことに疑いはない.一方,1977年頃,Jin先生は米国の著名な水晶体研究者であったReddy先生,Spector先生たちと水晶体会議(CCRG)を立ち上げられた.約2年後,名城大学教授の岩田修造先生が加わり,US-JapanCCRGへと発展した.それ以来,2年に1回,ハワイで開催され,長年にわたり日米の水晶体研究者の重要な交流の場となった.私自身も米国から,そして帰国後は日本から10回以上参加した.2009年,CCRGは福井大学眼科学教室としてハワイ州コナ市で主催した.近年,CCRGには世界中から水晶体研究者が集うようになった反面,日本からの参加研究者の減少とともにUS-Japanの冠称がなくなったことは残念である.Jin先生が提唱された糖白内障におけるポリオール浸透圧説とはつぎの通りである.糖異常状態では,糖はARの働きによって糖アルコールに還元される.糖アルコールは膜透過性が悪く,しかも代謝されにくいため細胞内に蓄積する.その結果,細胞内浸透圧が上昇し,細胞内に水分が吸引される.つまり細胞の膨化変性が生じ,白内障が形成されるに至る.構造式の異なる多種類814あたらしい眼科Vol.30,No.6,2013のAR阻害剤(aldosereductaseinhibitor:ARI)が,実験的白内障発症を抑制もしくは治癒させる.この事実が本説を強く支持する証拠の一つである.一時は世界の多くの製薬会社がARI開発に力を注いだが,ARIの一つであるSorbinilの網膜症に対する臨床治験結果において有意な予防効果が認められなかった.この頃から,AR研究は下火となった.水晶体研究を振り返ると,これまで白内障治療効果を持つとされた薬剤のほとんどは,生体における効果については客観性に乏しいのが現状である.動物実験であるにせよ,ARIほど再現性を有しかつ説得力のある治療効果を有する薬剤は白内障研究史上例を見ないことは強調したい.Jin先生とは配下の研究者としてよく一緒に食事に行ったし,またゴルフにも行った.Jin先生は心温かい指導者でした.われわれ下の人間のいうことを良く聞いてくれ,色々と気配りをされるボスであった.自身の講演の際にも,ご自分の手柄にせず,これが誰の研究成果なのか,いつも注釈を加えておられたことは印象深い.世界的なAR研究が一段落したあと,1989年9月ArdenHouse(NW)にて「退官記念学会」を開かれ,NEIを去られた.しばらくはカルフォルニアの大学の研究室にも属し,研究活動も継続され,時々来日され講演もされた.数年後,持病の腰痛が悪化され歩行もままならなくなったのちは,周囲との連絡を完全に絶たれ,自宅で過ごされた.あらためて私の恩人であるJin先生のご冥福をお祈りしたい.また,Peterには心から感謝したい.(92)