あたらしい眼科Vol.27,No.10,201014230910-1810/10/\100/頁/JCOPY著者は科学的知識と英知の違いについてこの本の中で書きたいと記しています.また,私たちの大きな利益のために,科学はどのような役割を果たすべきか,特に著者が携わっている分野(分子生物学)がどのような役割を果たすべきかについても書きたいと述べています.そして,科学における英知の欠落は,おそらく感覚や心が時間を体験する方法と,科学の方法の間のギャップから,起こるべくして起こるものであると推論し,そのうえで,最近の脳研究の成果を取り入れて,時間の問題について考察しています.私は「体内時計」という言葉について,睡眠などの行動の約1日周期のリズムをつかさどっており,脳の視床下部の視交叉上核に存在し,最近では時計遺伝子(ピリオドとよばれる)も発見されている,というくらいの知識がある程度で,これもたまたま時計遺伝子の発見者である岡村均教授(当時は神戸大教授)が京都府立医科大学の同級生であったお陰でありますが,著者の使っている脳の時計,ゲノムの時計の「時計」の意味と岡村教授らのいう体内時計の「時計」の意味とは共通するところもあり,やや異なっているところもあるような気がします.著者はまず,物理的に測れる世界にあるわれわれの外側に流れる時間というものを設定しており,その時間と人の頭の中での時間の経過はまるで違う,と述べています.また,古くからある二つの時計が1個の細胞から体を作り,三つ目の時計は知覚のメカニズムを動かし,もう一つの時計は私たちを昼と夜に同調させ,さらにもう一つの時計が意識的な知覚を作ってそれを無意識的な記憶にリンクさせており,これらの時計によって作られた体内時間は多様で複雑であり,死によってそれらが止まる瞬間にだけ,全部がぴたりと合うのである,とも述べており,著者の「時計」のほうが広義に使用されているようです.著者は死というものを大変重要視しており,死や私たちの内部時間の終わりについて意識的に考えようとしないということが,限りある生命を精一杯生きるために科学的発見を利用する力を制限しているとしています.『第1章感覚』発生時計と脳の時計について解説がなされています.感覚を作っている時計には,私たちがほかの生命体と共有し,昔から新しい生命形態を生み出し続けている自然選択の時計,発生中の胚で遺伝子のスウィッチをオンにしたりオフにしたりするリズム信号である体内時計(発生時計),神経細胞の中でだけ動き,1秒に何千回と入ってくる刺激を神経回路につなぐ役割を果たしている限定された時計(神経細胞同調時計)の三つがあります.そして,私たちの脳内回路は,遺伝子発現を支配する発生時計が描き上げた配線回路の設計図どおりに,神経細胞の同調時計によって組み立てられます.神経回路の連結編成は経験によって追加し続けられるとのことですので,どの脳の配線も(たとえ一卵性双生児のものであれ)子供の頃からまったく違っているそうで,10歳くらいまでは複雑さや大きさは増していくそうですが,青年期の終わりには,脳内の連結と脳細胞の数は2歳児レベルまで減り,その後はゆっくりと衰えていくだけになるようです.私たちが世界を識別するのに過去の存在が必要であることを,嗅覚と色覚をモデルにして著者は説明しています.眼科医にとって色覚を理解するうえで,この章はわかりやすく大変役に立つと思います.『第2章意識』この章では面白い実験が紹介されており,それによると認識される時間と計測される時間との間には差があり,意識的な今とは,0.5秒過去のことであることが証(101)■10月の推薦図書■脳の時計,ゲノムの時計ロバート・ポラック著中村桂子・中村友子訳(早川書房)シリーズ─95◆小玉裕司小玉眼科医院1424あたらしい眼科Vol.27,No.10,2010明されたとしています.つまり,この本の表紙に記されたように『ヒトは0.5秒前の過去に生きている!』ことになるわけです.人の脳が感覚を意識の瞬間にまとめるには半秒かかるのであり,私たちは半秒進んでいる意識の内部時計にコントロールされているからこそ,いま経験していると思いこんでいることはすべて半秒ほど前に起こっているにもかかわらず,同時感覚をもつことができるようです.『第3章記憶と無意識』無意識の精神活動をつかさどる脳中枢には,消えるでもなくそうかといって意識のなかに出しゃばってくるわけでもない記憶をつかさどる,安定してはいるが未開発のネットワークを維持する中枢があり,意識的に何かに注意を向けるとき,私たちは無意識のうちに自分の記憶をふるいにかけ,その認識と結びついているいくつかの記憶だけを意識化するとしています.そして,科学に影響を与えているのではないかと著者が指摘しているのが,人を含めて生物は死すべき運命にあるという事実を受け入れる恐れです.科学者も人間である以上,人間の脳が持っている性質が科学を作るのであり,科学者の死というものへの恐れが科学に影響を与えているという著者の観点は面白いと思います.『第4章侵略の恐怖』,『第5章暴動の恐怖』,『第6章死の恐怖』この3つの章では人間にとって,早すぎる死と回避可能な苦しみをもたらす伝染病,悪性腫瘍,老化の三つを取り上げており,この三者に対するこれまでの対処法を見直そうとしています.科学者はこれまで,これらの恐れに対抗して打ち勝とうという方法を取ってきましたが,そうではなく,科学の知識は十分に活かしながら,死への恐れを受け入れることが重要だと著者は述べています.『結論』「科学が努力してきたのにもかかわらず,死は避けられないものであるということを知り,信じることは難しい.残された仕事は,この知識を科学の限界と矛盾しない,分別ある,正直で良心的な行動に結び付けることで,科学を限界まで進め,延命のために最良を尽くすように変えていくことなのだ.」という言葉で著者はこの本を締めくくっています.ここでいう延命のため,というのは痛みを感じることなく,意識を有したまま社会的つながりを保ったままでの延命ということなのでしょう.現代の医学は,確かに多剤耐性菌と抗生物質のいたちごっこ,単に延命というだけの終末医療,産婦人科医や小児科医などの医師不足や患者の過度な要求といったような要因によって生じている医療崩壊など数え上げればきりがないほどの問題点を抱えています.著者はこの本の中で,ダニエル・キャラハンが科学と医学の限界を定め,死すべき運命という事実と並立させるためにした三つの提案を取り上げています.一つ目の提案は私たちは個体の死の必然性を認めなければならないということ,二つ目の提案は私たちは生命の長さではなく,質を高めるための研究を支援するべきだということ,三つ目の提案は政治的にも社会的にも,老人を生き永らえさせるためには何でもするという拘束を解き,生命の有限性と死の確実性を認める医学へと移行しなければならないということです.著者は医学のゴールは永遠の生命ではなく,ゲノムによって割り当てられた年数を,痛みもなく社会的に保障された状態で生きることなのだと述べています.確かにこのようなスタンスは医学者や著者のような分子生物学者にとっては必要なことかもしれませんし,このようなスタンスが現代の医学が有する多くの問題点を解明する鍵になるかもしれません.しかし,私は科学というものはもっと広い視野に立って研究を進めるものだというような気がしてなりません.なぜなら科学というものは物事や自然の本質や真理を追究するものであり,人間も自然の一部であるからには,自然というものの本質的な研究は,いずれは人間というものの解明に役立ち,それが医療というものと繋がる可能性も大きいと思うからです.いずれにしても,一眼科医としても,私はこの著者の言わんとしていることには大いに考えさせられるものがありました.ぜひ一読されることをお薦めいたします.(102)☆☆☆