JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ③責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ③責任編集浜松医科大学堀田喜裕Dr.JinH.Kinoshitaと日米眼科研究協力沖坂重邦(ShigekuniOkisaka)防衛医科大学校名誉教授1964年順天堂大学医学部卒業.1969年順天堂大学大学院医学研究科博士課程修了.医学博士学位取得.1970年米国Harverd大学医学部HoweLaboratoryofOphthalmologyResearchFellow.1972年米国国立眼研究所VisitingScientist.1974年Merubourne大学医学部眼科学教室Fellow.1975年順天堂大学医学部助手.1976年同大学臨床講師.1978年防衛医科大学校助教授.1982年同校教授.2004年同校定年退官.眼病理教育研究所所長.2005年防衛医科大学校名誉教授.現在に至る.Dr.JinH.Kinoshita(以下Jin先生)の水晶体の生化学的研究の業績は,私が大学院在学中の後半(1968~1969年)の博士論文(家兎前眼部の器官培養)作成の際にはきら星のごとく輝いていました.それはJin先生のところで研究していて帰国され,順天堂大学眼科学教室の講師としてご指導を受けていた佐藤建士先生から伺ったエピソードによっても裏打ちされていました.Jin先生との出会いはそれからすぐの1969年9月のまだ暑さのきびしい時でした.Jin先生は,HarverdMedicalSchool,HoweLaboratoryofOphthalmologyの同僚であるDr.ToichiroKuwabara(以下Toichi先生)と一緒に日米眼科研究協力について日本側の順天堂大学の中島章先生らと話し合いのために来日されました.写真1は話し合いの合間にBostonのRetinaFoundationの留学から帰国されたばかりの糸井素一先生と一緒にお二人を箱根の観光にお連れした時のものです.翌年の1970年5月から私はResearchFellowとしてHoweLaboratoryofOphthalmologyの実験病理研究室でToichi先生のご指導の下で網膜光凝固,網膜光毒性,網膜生検の仕事をはじめました.LaboratoryでJin先生にお会いすると,「Toichiは厳しいから何か困ったことがあったら私のところに遠慮なく相談に来なさい」とやさしく声をかけてくださるのが常でした.1971年には,Jin先生はWashington,DC郊外のメリーランド州Bethesdaにある米国国立眼研究所NationalEyeInstitute(NEI)のLaboratoryofVisionResearch(LVR)の初代の所長になられたので,HoweLaboratoryofOphthalmologyの多くの研究者もLVRに移って行きました.Toichi先生もLVRの実験病理部(85)0910-1810/13/\100/頁/JCOPY写真1箱根にて左より,Jin先生,Toichi先生,糸井素一先生,筆者.長として新しい研究室の立ち上げに奔走しておられました.私は1972年にLVRに移り,網膜から緑内障にテーマを変えての実験病理の仕事をToichi先生と一緒に精力的に続けました.幸いにも,トップネームの論文“Selectivedestructionofthepigmentedepitheliumintheciliarybodyoftheeye”がScience(184:12981299,1974)に掲載され,Jin先生からも「よくやったね」と労をねぎらっていただきました.私はNEI開設時に留学していた関係でNEI同窓会の事務的なお世話を仰せつかっていました.NEIDirectorのDr.CarlKupfer,Jin先生,Toichi先生らが来日した時には来賓を囲んで同窓会を企画し旧交を温めていました.写真2は1984年9月Jin先生をお迎えした時のNEI同窓会の集合写真で,図1はJin先生に差し上げた寄せ書き(コピー)です.2005年7月Dr.CarlKupferから,NEIのIntramuあたらしい眼科Vol.30,No.3,2013371写真2東京帝国ホテルにて中央のJin先生を囲んでNEI同窓会のメンバー.ralProgramで留学した日本人研究者の帰国後の動向を調査してほしいとの依頼が中島章先生を通してありました.留学者一人ひとりのpointの情報よりも全員のmassの情報を,時間軸を含めた三次元の情報として捉えれば何か新しい動向が見えてくるかもしれないと思い,NEI同窓会の会員にアンケート調査への協力依頼をいたしました.このアンケート集計をDr.CarlKupferに提供したところ,日米の眼科研究協力のすばらしい成果であると評価されました.この調査結果は日本眼科学会雑誌(110:238-241,2006)の談話室に「アメリカ国立眼研究所と日本人留学者」として掲載されていますので参考にしていただければ幸甚です.NEIに留学した日本人は,1972~1979年19名,1980~1989年25名,1990年以降12名でした.この数字の意味するところは,いくつかあると考えています.①これだけ多数の日本人研究者が30年ほどの間に1研究施設に留学できたのは,1969年9月に日米眼科研究協力の話し合いで来日した時からのJin先生とToichi先生のこのProgramに対する強力な思い入れがあったものと確信しています.②後期に留学者が減少しているのは,NEI内での留学者の一極集中を避ける動きやNEIの所帯が大きくなってJin先生やToichi先生の影響力が及ばなくなったことなどによるのではないかと推測しています.留学の目的にはいろいろあると思いますが,私の独断と偏見をお許しいただくとして3つに分けてみました.56名の日本人研究者の主な留学目的を無理を承知で分類してみますと,①医育機関内でのステップアップの手段としてのキャリア・技術・語学力などの習372あたらしい眼科Vol.30,No.3,2013図1Jin先生にプレゼントしたNEI同窓会メンバーの寄せ書き(コピー)得をしたい(76%),②一時期研究生活を体験して臨床医としての幅を広げたい(17%),③最先端の研究の場に身を置きたい(7%)ということになりました.興味ある数字であると思っています.今まで述べてきましたNEIのIntramuralProgramと並行して,日本学術振興会(JSPS)とNEIの上部機関である米国国立衛生研究所(NationalInstitutesofHealth:NIH)との政府間協議による眼科および視覚に関連した生理学,工学の研究者の国際交流が1976~1991年までの15年間に実施されており,日本から米国へ19名,米国から日本へ17名留学しています.NEIであれNIH・JSPSであれ組織を介した留学の継続にはプロモートする人々の見識・先見性・持続する情熱が大ですが,時の流れ・時期を得ることのむずかしさもおわかりいただけたのではないかと思います.日米眼研究の架け橋の一断面について述べさせていただきましたが,故人となってしまわれましたJin先生,Toichi先生,お二人の恩師のD.G.Cogan先生のご指導に感謝いたします.また,このプロジェクトに強い牽引力を示されました私の恩師中島章先生のご健勝を祈念しています.(86)