JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ④責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生を偲んで日米の眼研究の架け橋★シリーズ④責任編集浜松医科大学堀田喜裕JinH.Kinoshita先生の思い出望月學(ManabuMochizuki)東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科眼科学分野1973年九州大学医学部卒.1973年東京大学眼科研修医.1974年東京大学助手.1979年東京大学講師.1981.1984年NEIResearchAssociate(日本学術振興会-NEI交換留学プログラム).1987年東京大学助教授.1990年久留米大学眼科教授.1998年東京医科歯科大学眼科教授.現在に至る.Kinoshita先生に初めてお会いしてから30年以上の歳月が過ぎました.私がNationalEyeInstitute(NEI)と日本学術振興会との交換留学プログラムでNEIに留学した時のことです.1981年10月半ば,雨の降りしきる夜のワシントン・ダラス国際空港に妻と1歳半の娘を連れて着いた私は,これからの留学生活を思い,期待よりも不安でいっぱいでした.そもそも,今夜から泊まるアパートも住所は届いているが,果たしてタクシーが安全に連れていってくれるのか?…….そんな不安を抱いて私たちが到着ゲートを出ると,ソフト帽にトレンチコート姿の紳士が,“AreyouDr.Mochizuki?IamJinKinoshita”と穏やかな笑顔で声を掛けてくれました.何と,NEIのScientificDirectorのKinoshita先生ご自身が迎えに来てくださったのです.そのときの驚きと感激は生涯忘れることができません.驚きはそれだけではありませんでした.先生が用意してくださったアパートに着くと,パンパース(ディスポのおしめ)と赤ちゃん用の入浴盥が用意され,冷蔵庫にはミルクと私たちの数日分の食べ物まで入っていました.幼い娘連れなので,Kay奥様がわざわざ用意してくださったのです.さらに,先生はご自宅から私たちの夕食にと,マグロの刺身,チキンの照り焼き,温かいご飯を持ってきてくださいました.あまりの細やかで温かい心遣いに,私たちはただただ驚き,感激するだけでした.翌日から私が車を購入するまで,毎朝,先生が研究所までピックアップしてくださり,Kay奥様は家内をベセスダのスーパーやモールへ買い物に連れて行ってくださいました.このように,先生ご夫妻のおかげで,私た(91)写真1Kinoshita先生ご夫妻,長女,家内.ロックビルのアパート(1982年).ちは大変に順調で素晴らしい留学生活のスタートができたのです.その後も,感謝祭やクリスマスなどのたびにご自宅へ招いてくださり,娘はすっかりご夫妻になついて“Jinおじちゃん,Kayおばちゃん”とお二人の後をついて回っていました.ご自宅でのパーティーでは先生自らが食事のサーヴをされ,時にはご自身で料理もされました.先生ご夫妻をアパートにお招きすると,“Manabu,whatdidyoucook?”と,悪戯っぽい目でいつもお尋ねになり,そのお陰で私も30歳半ばで初めて料理をすることになり,その時に習い覚えたパイ料理やキルシュは今もわが家の人気メニューです.留学中に生まれた次女は,ご夫妻から奥様の名前をmiddlenameに付けていただき,今もわが家ではKayと呼ばれています.私は先生の研究分野とは違うので,先生に直接の研究指導を受ける機会はありませんでした.しかし,研究室あたらしい眼科Vol.30,No.4,20135190910-1810/13/\100/頁/JCOPY写真2Kinoshita先生追悼会のCD写真集の表紙は同じ建物にあったので,毎日のように先生が研究室に足を運び配下の研究者と熱心に話されている姿をお見かけしました.「いくつになっても,研究室にいる時が一番楽しい」という先生の言葉と,誰にでも公平に接しておられた姿が,今も印象深く思い出されます.3年間の留学を終えて帰国した後も,フロリダでのARVOに家族を連れて行くたびにベセスダの先生ご夫妻を訪ね,また,先生が来日して東京に滞在される時には家族でお会いし,時には拙宅にもお招きして娘たちの成長を見ていただきました.先生がNEIを退職されサンフランシスコに移られてからも,何度も家族でご夫妻を訪ねました.しかし,先生のリウマチが大変に悪化した頃からご夫妻の消息が届かなくなり,そのうちにKay奥様の訃報を聞くことになりました.NEIなどに尋ねても,どなたも先生の消息がわからない状態が長く●★続きました.そんな中,家内が,以前にサンフランシスコで先生から紹介していただいた親類の方(先生の弟の奥様)から先生の消息を教えていただき,その方の案内で家内がサンフランシスコ郊外の病院に先生をお見舞いして,ようやく先生の近況がわかりました.そして,2010年6月半ばに,家族4人でサンホゼ郊外のケアハウスに移られた先生を訪れることができました.先生は重度のリウマチのために全く動けない状態でしたが,お元気だった頃そのままの笑顔で私たち一人ひとりに声をかけられ,私たちの近況にも耳を傾けられ,娘たちの成長した姿を殊のほか喜ばれていた姿が今も心に強く残っています.それからわずか2カ月後の8月26日に,その親類の方からわが家に先生の訃報が届きました.そして,先生とご親交のあった方々,日眼事務局,NEIに先生ご逝去の悲報をお届けすることになりました.翌年のARVOで,PeterKador教授(ネブラスカ大学)の呼びかけによりKinoshita先生を偲ぶMemorialSymposiumが開かれました.多くの友人と親類の方々が集い,先生を追悼するスピーチがなされ,若き頃の先生や思い出の写真の数々が披露され,その時に集めた写真はCDアルバム(写真2)にされて参加者に配られました.Kinoshita先生は比類なき優れた科学者であり,多くの人々にとってかけがえのない指導者であり心許せる大切な友人でした.そして,私たちにとっては父とも祖父とも云える優しい存在でした.先生から教わったことは数多くありますが,なかでも人に公平(fair)に接することの大切さを先生の生き方を通して教えていただいたように思います.●★520あたらしい眼科Vol.30,No.4,2013(92)